シリアスに近況報告
私が自分らしく在る方法
8月いっぱいで、2年半勤めていた職場を退職した。
派遣社員として就業していたこともあり、漠然と次は直接雇用がいいと希望を持って、次の働き口を2ヶ月探しているが、今のところ内定は貰えていない。
そろそろ、焦りが私のキャパシティを越えはじめている。
私は今年て36歳になった。
「36歳」この年齢を、世間の認識しているだろうことに照らし合わせると、どういう風に捉えてられるのが一般なんだろう。
結婚している。
子供もいて。手の掛かる時期を過ぎた。
仕事に復帰して、夫と共働きで生計を支えがら生活する。
ふと思い浮かんだこれは、
いったい誰のストーリーなんだろう。
多様性的な話がしたいわけじゃない。
私がふと、36という年齢を思い浮かべと、このテキストが浮かんでしまうことに、自分自身の思考ロックというか、問題を炙り出すの糸口がある気がする。
「親ガチャ」
私は親ガチャに失敗した人間だ。
そんなことを嘯いて、生きていることを放棄したくない。
最近、母とよく連絡を取っている。
転職活動で、落ち込んだり、不安に陥ったときに、気分転換の話し相手になって貰っている。
私の生き方が悪かったのだろうが、私には気軽に連絡を取れる友人がいない。
(そもそも友人というものが、こうゆうときに気軽に連絡するものなのだろうかよく分からない)
一時期は、わだかまりにどうしようもなって、連絡することを控えていたが、最近は両親にメンタル面で支えてもらっている気さえする。
私が両親に対して傷つけてられたことがらは
もう20年は前のことだ。
彼らの細胞は入れ替わり、別人になったのだ。
と考えてみて、少し違うことに気がついた。
ここが上手く言語化できない。
(そもそもこの文章を通して、上手く言語化しているのかはさておき)
20年前に発せられた私を傷つけた言葉たちを、丸っとそのまま、今の彼らに押し付けるのは、乱暴な気がする。
なんか違う気がする。
こうして今、落ち込んだりした時に、連絡を取れる関係が築かれていることを、もっと誇っていいと思う。
こうして欲しかった。
ああして欲しかった。
こうして欲しい。
ああして欲しい。
あと、自分はこう在るべきだ、とかも。
手放していい気がする。
なんとなく。
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友人について
「友人がほしい」と思う。
友人ってなんなんだろ。
そもそも私は友人を知らなくて、
私以外の多くは、友人を知っている。
みたいな感覚がある。
けど、何処かに定義があるようで、本当にみんな知っているのだろか。
みたいなことを考えました。