『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』24話についての感想
ごきげんよう、東京理科大学百合愛好会のナマズンと申します。
みなさんは『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』という作品をご存じでしょうか?この作品の作者である塀先生は東京理科大学のご出身です。
東京理科大学百合愛好会のメンバーとして、この作品を楽しく読ませていただきました! 僭越ながら、24話について自分なりの感想や解釈をまとめてみたので、ここに書き残しておきます。
この記事は『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』5巻までの内容を含みます。また感想や解釈は単行本までの内容より行われたものとなります。
”季節が進むことを躊躇っているみたい…”
24話の冒頭にて、ぼたんが言った言葉です。先週までは肌寒い日のようでしたが、この日は夏日となっていました。ただの気温の話の割には、ぼたんはどこか物憂げな表情です。
ぼたんはいぶきのことを好きだとジンランに明言しましたし、付き合う途上であるとも言っていました。
(”付き合う途上”というのは、自身といぶきの行動を客観的に見た結果でしょう。一般的なカップルは二人で貸し切り温泉にいったり互いのことを特別だと言います。)
しかし、いぶきの気持ちに確信を持てていません。いぶきのいう”特別”は自分のと同じなのか。つまりいぶきは自分と恋人になりたいのか、ぼたんは悩んでいました。
ぼたんは答え合わせをすることによって、今のいぶきとの絶妙な関係を壊し、失ってしまうのを恐れているのでしょう。
このような関係の進展への躊躇と、8月の暑さを引きずっている季節を重ねたのではないでしょうか。
一方いぶきはとても穏やかな表情をしていました。
ツバメは夏の終わりと共に越冬のため東南アジアへ飛び立ちます。雰囲気ぶち壊しですが、九州とかでは普通に越冬ツバメがみられるらしいです。また地球温暖化のせいか、ちょいちょい関東でも見られるようになってるらしいですよ。
閑話休題、いぶきはぼたんとの関係を前に進めていくことに躊躇っている様子はありません。いぶきはかなでとサシ飲みしなかったり、酒屋に行く誘いを断っていますが、ぼたんに対してはずっと積極的です。
ぼたんが初めて飲んだ後すぐにぼたんと飲みたがったりと、テンションが高い時はぼたんに素直に気持ちや感情を伝えています。これは”おそろい”だからでしょうか?
ぼたんといぶきの立場が逆であっても、いぶきはぼたんほど迷わないでしょう。ぼたんの気持ちがわからなくても、いぶきなら素直に自分の気持ちを伝えることができると思います。
このように積極的な見方が、季節の見方に表れているのではないでしょうか?
”大丈夫ですよ 私は”
氷川渓谷にてお酒を飲んでいるときのぼたんの言葉です。
ジンランの言葉を受け、いぶきは安易に誤解を招くような発言を控えています。「私だって」「私こそ」「私が……」という言葉の裏には、「私だって来たかった」という思いを伝えたい気持ちがあったのでしょう。
多摩川の奥へ向かうぼたんに対し、いぶきは不安そうな表情で戻ってくるよう声をかけますが、ぼたんは「大丈夫ですよ、私は」と返します。この「大丈夫ですよ、私は」という言葉は、「何か質問ありますか?」と聞かれたときの「大丈夫です」と同じようなニュアンスを感じさせます。つまり、本当は聞きたいことがたくさんあるのに、それを口にできないぼたんの心情が滲み出ているように思えるのです。
いぶきがぼたんの不安そのものに気づいていなかったとしても、彼女の様子が普段と違うことにはなんとなく気づいていたのではないでしょうか?いぶきが24話の中で常に笑顔だったにもかかわらず、この場面だけ違う表情を見せているのがその証拠のように思えます。
もしそうだとすれば、ぼたんが口にした「大丈夫」という言葉の意味も、少し違ったニュアンスを持ってくるのかもしれませんね。
いぶきの「幸福」とぼたん
”すごい幸せ――”
ぼたんと袋を一緒に持ちながら路地を歩いているとき、いぶきは幸せを噛みしめていました。上記の言葉を伝えられたぼたんは、次のコマでは頬に斜線が戻り汗がにじんでいます。
言われている瞬間に頬に斜線がないのは、ただ単にぼたんがいぶきの話を聞いている途中だったからであり、ぼたんの心情については特筆することがないと思いました。(次のコマの紅潮を引き立てるためでもあると思います)
”たいへんな幸福”
27話にて、いぶきは似たようなことを言います。
二人で旅行に行った27話にて、ぼたんは上記の会話の際に24話のときと同じような顔をしています。しかし27話のほうでは、いぶきの言葉を聞いた後のぼたんの頬に斜線は射しませんでした。
その次のコマでは既に酒が入っていて、いぶきの言葉を聞いた後にぼたんがどのような会話をしたのか描写されていません。いぶきのデレとぼたんの照れを描写するならば、ぼたんの紅潮がセットでないとおかしいはずです。
ぼたんの意識の違い
同じような言葉なのに、なぜこのような違いがあるのでしょうか?
24話では既述の通り、未だ迷いがありました。曖昧な今の関係をはっきりさせたいと、明確には思っていないでしょう。
一方26話では、ぼたんは自分の気持ちを伝える覚悟がある程度できています。つまり今のいぶきとの曖昧な関係をはっきりさせるつもりがあったと思います。
ぼたんは「たいへんな幸福」という言葉を、現状に対する満足感として受け取ったのではないでしょうか。これは私の感覚ですが、もしぼたんも同じように感じていたとしたら、話の流れとして辻褄が合うように思います。
ぼたん自身は、曖昧な関係をはっきりさせたいと考えているのに対し、いぶきは今の曖昧な関係に「たいへんな幸福」を感じているように見える。付き合いたいと思っているのは自分だけで、いぶきにとっては単なる特別な飲み友達にすぎないのかもしれない――ぼたんがそう考えたとしたら、「たいへんな幸福」という言葉を聞いた後に顔を紅潮させなかった理由も説明がつくのではないでしょうか。
(いぶきの言葉を聞いた後、雲が出てきました)
以上のようなぼたんの意識の違いから、いぶきの言う「幸福」への表情が異なっていたのではないかと思いました。
終わりに
『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』、とても繊細な作品で、つい何度もじっくりと読み返してしまいます。拙い文章ではありますが、ぼんやりとした頭の中の解釈をなんとか文字にしてみました。
感想や解釈を書く際には、時系列的に矛盾していないか、自分のイメージが先行して自己矛盾を起こしていないか、といった細かい部分にも注意を払ったつもりです。それでもどこか破綻している箇所があるかもしれませんが、どうか大目に見ていただけると嬉しいです。
どうでもいいですが、27話でいぶきが流していた曲は実在するので是非聴いてみてください!
では、ごきげんよう。