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【ソ連の学生服(1950年代)について】

革命後の1918年、ソ連では「ブルジョアの残滓と帝国の警察国家体制遺産との闘争」において学生服を廃止する法令が発行された。
その後、再び学生服が復活するのは、1948年の社会全体における社会的制服化時代においてであった。
ちょうど第二次世界大戦後であり、当時のソ連国民は貧しく、一部の例外を除き多くの家庭では子供たちが学校に着て行けるような服を用意出来ないという問題があった。
このような状況の中、ソ連政府は社会主義が掲げる国民の平等を強調する意味でも学校における制服の導入が必要と感じた。
さらに、戦争により荒んだ社会において厳格なる規律と道徳、集団の帰属意識を強調させる意味でも制服の採用が求められた。
しかし採用された制服は全ての点で男女ともに革命前の学生服によく似ていた。
また男女平等を謳う社会主義国家に関わらず、女子学生用の制服は性別的役割を強調するデザインで、明らかにメイド(女中)服に似ているのは、将来女性が担う職業や家庭での役割を意識させるための極めて保守的な思想から来ていた。(これも帝政時代の制服の流れを組んでいた。)
女学生の制服は、古典的な茶色のワンピースに黒色(平日用)又は白色(行事・祝日用)エプロン、髪留めのリボン飾りだった。また、リボン飾りもエプロンと同様に黒色(平日用)と白色(行事・祝日用)があった。髪飾りはこれ以外の色は認められなかった。
清楚さが求められ、髪を染めることは言うに及ばす、「はやりの髪形」は1950年時代を通してすべて厳しく禁じられていた。


男子学生服のデザインは、軍服に酷似していた。
それは帝政時代の学生服のデザインがそうであった事と、戦争直後という男性の将来的な社会的役割を暗示するものでもあった。
さらに男子学生服には構造的欠陥があったことから、学生たちには大変不評であった。
特にひどかったのは、襟元(特に詰襟タイプ)がきついことから成長期の子供たちに合わず、よく首の血管を圧迫するということ、さらにベルトをきつく締めるよう指示されていたことから腹部が締め上げられ子供たちは苦しい思いをした。
夏場でも上着を脱ぐことが許されず、体温調整に支障をきたしたこともあげられる。
さらに、家庭内での問題として学生服は予備があるわけではなかったので、どうしても洗濯回数が少なく常に汚れており不衛生であった。
1950年代を通して、教育現場でも厳格な道徳が常に求められた。
学生服の着用は義務であり、服の長さや正しい着用法、その他の制服に関するパラメーターなどは、教育機関により管理され、違反すると厳しく処罰された。



男子学生服の帽子、ボタン、ベルトのバックルにあしらわれていたエンブレム。

しかし、事実としてこの時代の学生服の普及はあくまで物流が整い、物資に余裕のある一部の大都市での出来事であり、先にも述べた通り、地方の一般庶民の家庭では日常の服や下着、靴ですら満足に揃えることすら困難な状況であった。
そのためソ連で学生服が全国的に普及するのはまだ先のこととなる。
さらに言うとこの時代、都市部から両親の転勤で地方の学校に転入した生徒が学生服で登校したらいじめられるような事態もあったようだ。

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