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サンセリフ体の起源 I

本文は研究中の内容を含みます。内容の正しさに疑問を呈されるお方は、提示してある参考文献等をもとにご自身でご検証ください。


サンセリフの起源にまつわる研究

サンセリフの起源にまつわる話は諸説ありますが、その多くは現代ではあまり肯定的に捉えられていません。

現在もっとも古いサンセリフの活字として知られる書体はWilliam Caslon IVの作成したTwo Lines English Egyptianと呼ばれる活字です。Two Lines Englishというのは大きさを表しています。この活字は多少の変更を加えられながらもBlake, Garnett & Coに母型が購入されたバージョンが現代に残っています。

この活字は作成当時使用された例は見つかっていません。(やや後の時代では見つかっている)その様なこともあり専門家の見解では、「おそらく依頼されて作られたものである」とされながらも、依頼主も不明です。

サンセリフの起源としてもっともよく知られる説としては、Egyptianと呼ばれることから同じくEgyptianと現代でも呼ばれるスラブセリフの書体からセリフをとったものであるという説です。

この説の起源はA.F.Johnsonの著書Type Designsの中のSans Serifのセクションで、

The sans serif is in fact an Egyptian with the serif knocked off, and it is probable that that was the manner of its creation.

A.F.Johnson, Type Designs: Their history and development second edition, p.158

と書かれているものが起源であるとされています。ちなみにこの説は現代では否定されています。理由としては活字以外の看板などではサンセリフの方により古い例がより見つかっているからです。他にはギリシャ起源説というのもあり、これは遠からずといったところでしょう。

サンセリフの起源に関して現在私の知る限りもっとも有力な説は、書体史の研究家で現代もっとも有力なJames Mosleyの説です。彼の研究によると最も初期のサンセリフは建築家John Soaneドローイングに見られるレタリングという説です。この説は彼の有名なThe nymph and the grot: The revival of sanserif Letterと彼のブログでの追記で述べられています。

この説は現代の書体デザインでは一般化しつつあり、これをさらに起点としてさらにその起源を探るJohn Meltonなどの研究もあります。しかしこれらの研究でその起源が全てが明かされたわけではありません。Mosleyは著書の中で、初のサンセリフ活字であるWilliam Calson IVのTwo Lines English Egyptianとの関係をそれほど明確にしていない点や、なぜEgyptianと呼んだのかなどについてはほとんど書かれていない印象があります。私は現在これらの問題に取り組んでいます。


古代イタリア

Mosleyの本やMeltonの研究では基本的には1800年前後の事象についてまとめられており、基本的な美術史の背景知識がない人にはあまり深いレベルで理解できない内容になっています。したがって時代を遡って解説したいと思います。

ヨーロッパでは古代ギリシャやローマといったものが彼らの文化の根源であると考えられています。そしてエジプトはさらにそれらの起源であるというふうに考えられています。(ヨーロッパ人のエジプトに関する考え方についてはここではあまり深く触れないでおきます。)

もう一つサンセリフの起源にまつわる知識として必要なことに、古代にはエトルリア語という言語がありました。この言語は死語でルネサンスの頃にはもすでに死語でありました。したがって碑文の中に刻まれ残っていたものなどがよく知られます。

古代の時代このエトルリア語はイタリアの北部で使われており、また特にイタリアの南は実はギリシャ語圏であったことは重要なことです。


新古典主義

サンセリフが登場した時代は、美術史で考えると新古典主義の時代でした。この新古典主義の動きを強く後押ししたものにポンペイの遺跡の発掘がありました。

古代イタリアに、ある重大な事件が起こります。それは西暦79年のヴェスヴィオ噴火です。この噴火によりポンペイそしてヘルクラネウムといった都市が火砕流に巻き込まれ埋没されます。

ポンペイはイタリアにあるのでポンペイのことを考えると古代ローマを思い浮かべますが、実はポンペイはイタリアにありながらギリシャ語圏であったということが一つ大事な要素となると思います。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d8/Iron_Age_Italy.png

この埋もれてしまった街の大規模な調査が行われたのが1748年でした。(ソースによって若干年代が異なります。)発見された遺跡や品々は人々の古代へのロマンブームを駆り立てました。これは印刷家を含む幅広い知的階層に大きな影響を与えました。

書体史の研究家Daniel Berkeley UpdikeのPrinting types: Their History, forms, and use Volume IIで

Long before the discovery of Herculaneum and Pompeii, excavations had been made in the neighborhood of Rome, and the "ground tour" had made Roman antiquities familiar to travelers. 

Daniel Berkeley Updike, Printing types: Their History, forms, and use Volume II, p.160

と書かれておりポンペイ発掘以前から、グランドツアーと呼ばれる英国貴族の修行旅行先の目的地としてローマ遺跡に関する知見は英国にもたらされていたとしつつも。

Even before the latter date [1764] public interest was considerably aroused, and these discoveries were discussed in learned publications—Cochin, who visited Italy with Marigny and Soufflot, witing on Herculaneum in 1751, and Carlos III in 1757 promoting Baiardi’s Antichità di Ercolano [Italicized].

Daniel Berkeley Updike, Printing types: Their History, forms, and use Volume II, p.160

この様なことから書体デザインに携わる人々の関心を大きく惹きつけたことがわかります。そして人々の文化の起源に関する興味はその後1798年ナポレオンのエジプト遠征で絶頂になりエジプトブームが続きます。

Robert Southey, Letters from England Vol3, 1808, p. 275
https://books.google.co.jp/books?id=YL8sAAAAMAAJ&newbks=0&hl=ja&source=gbs_navlinks_s


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