August Beyerhaus(美華書館二号活字の制作者)について
イントロ
August Beyerhausという人物は美華書館二号活字の制作者として知られながら、あまり研究が進んでいなかったように思います。近代の日本語書体の研究家、小宮山博史氏も「バイエルハウスついては詳しいことはわかりません。」(小宮山 日本語活字ものがたり、p.262)とされています。実はこれは日本に限らずフランス語の文献でも、On ne dispose que de peu de renseignements sur August Beyerhaus.(Jean-Pierre Drège、p. 293)と書かれるところを見るとフランス語でも彼に関する情報はほとんどないのだと思われます。
ほとんど情報のないAugust Beyerhausですが、最近この人物について書かれたドイツ語の研究書に出会うことができました。本のタイトルはDer Druck Chinesischer Zeichen in Europa: Entwicklungen im 19. Jahrhundert(DeepLによる訳:ヨーロッパにおける漢字の印刷:19世紀の発展)と言います。Georg Lehner氏は、Wein大学の教授で専門は中国史の方のようです。活字の専門の研究者ではないようですが、この彼の著書の内容は驚くべきもので日本で知られている近代の漢字の研究を大きく変えてしまうと思います。(本の出版は2004年ですが研究自体は90年代から公表されているものもあるようです。)
Der Druck Chinesischer Zeichen in Europaの内容を細かく紹介していきたいところではありますが、また私自身は普段ラテンアルファベットの研究をしているため漢字の研究には疎く、また非常に膨大な内容と原書がドイツ語であるということもあり細かいところまで読むと時間を要します。したがって日本の研究者にとって最も謎の多いAugust Beyerhausについて、この研究書の内容を中心に、私の研究を加える形で日本語の読者に紹介できたらと思います。
以下の文章は勉誠社の「書物学 15」に収録されている蘇精氏の「美華書館二号(ベルリン)活字の起源と発展」と柏書房の「本と活字の歴史事典」に収録されている小宮山氏の「明朝体、日本への伝播と改刻」の内容を理解している前提で書かれているので、先にそれらの本を一読されることをお勧めいたします。
バイオ
August Beyerhausの生涯を直接書いている文献を私は知らないのですが、実は彼の妹Emilie Röttgerについて書かれた本があります。この本はLengericher Frauen Erzählte LebensgeschichtenといいIngrid Rolfes 氏と Helgard Weiß氏によって書かれました。
この本によるとAugust Beyerhausは1805年に生まれ1871年没となっています。妹の生まれた1808年は家族はBerlinに住んでいたとなっています。(参考にした文献のEmilie Röttgerの生まれが小見出しと本文で異なるのは謎です。) Beyerhaus家は鋳物を営む中級階級で、プロイセン王室からの受注があり比較的裕福な家庭であったとされています。またEmilie Röttgerは宮廷の料理人で王女に支えていました。(Ingrid Rolfes, Helgard Weiß, p.14) ドイツ語版Wikipediaから辿っていくことのできる資料に、Adreß-Kalender für die königl. Haupt- und Residenzstädte Berlin und Potsdam, sowie Charlottenburg (Public Domain) Ausgabe 1863という資料がありますが、これを見るとBeyerhaus, Hof-Graveur, Dönhoffstr. 6.とあり日本語にすると「ベイヤーハウス氏、宮廷彫刻家、デーンホフ通り6番」とありますのでやはり宮廷に使えていたようです。
ドイツの活字研究者Dr. Dan Reynolds氏によると、Beyerhausは1840年代の初頭までSpandauer Straßeに住んでおり、1845年彼がHofgraveur, Wappen- stecher, Steinschneider und Schriftgießerei-Besitzerと呼ぶ現在のOberwallstraße 6と呼ばれる地域に住んでいたとされています。また彼は1850年に活字鋳造所を閉鎖したとなっています。(Dan Reynolds, p.273) これらの年代に関してDan Reynolds氏は、研究者のFriedrich Bauer氏の著書で、Hans Reichardt氏によって2011年に出版された本を参考にするようにとしています。ただ私はこの本に関しては未読です。
オンラインで見れるFriedrich Bauer氏の著作Chronik der Schriftgießereien in Deutschland und den deutschsprachigen Nachbarländernは、ドイツの印刷関連の歴史を網羅をかなり網羅しており、私も時折研究に使うのですが残念ながらBeyerhausに関してはほとんど情報がありません。
以上がBeyerhausに関する私の知っている基礎情報です。
August Beyerhausの活字制作活動
Beyerhausを日本に知らしめるのが、美華書館で使われた分合の二号活字だと思います。Beyerhausはロンドン伝道会のSamuel Dyer氏が亡くなった際、プロジェクトの手助けを申し出たとされています。小宮山氏はChinese Recorderの第六巻第一号を参照していますが、「明朝体、日本への伝播と改刻」の訳文はニュアンスがあまり良くないのでここでは原文を紹介したいと思います。
「本と活字の歴史事典」の訳文では分かりにくいですが、Samuel Dyerの2つの活字の中間サイズを作ることを提案したのは、Beyerhaus自身であるということです。つまり彼には元々中国語の活字を作る知見があったことが伺えます。最も小宮山氏の研究でも、Beyerhausによるより早い時期に作られた楷書体活字のことが触れられており、Beyerhausがすでに制作の知見があったことは推測されていると思います。
彼はどのように中国語のノウハウを手に入れたのか、日本ではあまり知られていなかったその経緯はGeorg Lehner氏のDer Druck Chinesischer Zeichen in Europa: Entwicklungen im 19. Jahrhundertに記されています。
Lehner氏によると、ドイツの中国語の研究はゆっくりとしたもので19世紀後半まであまり活字を使用する試みはなされなかったようですが、1837年にはプロイセンの科学アカデミーに対して中国語の活字を求める声が上がっていたようです。
Georg Lehner氏によると、特にドイツに中国語活字をもたらすように主張したのは天文学者Ludwig Idelerでした。
同じく1837年頃より中国語活字の導入を主張していた彼は、パリよりベルリンに活字を輸入することを提案します。1837年12月に中国語活字母型の調達方針が決まりました(Georg Lehner, pp. 120-122)
この際重要な役割を果たしたのが王立博物館(Königlichen Museen)のIgnaz von Olfersでした(Direktorとなっているので館長でしょうか)彼は地理学者Alexander von Humboldt経由で中国学者Jean Pierre Guillaume Pauthierと接触し、またHumboldtは美華書館三号活字の制作者であるMercellin Legrandに会いに行ったとされています。(Georg Lehner, p. 122)ちなみにPauthierはLegrandの中国語活字の監督を行なっていた人物です。ここでフランスから買い付けた活字母型を鋳造した人物こそが、Beyerhausだったのです。
母型の調整と鋳造の細かい進捗は、Der Druck Chinesischer Zeichen in Europaを読んでいただきたいと思います。簡単な進捗をまとめると、1840年8月10日には受け取った1658個の母型のうち72%の1200個を完了させ(Georg Lehner, p. 123)、1843年の時点で科学アカデミーは鋳造した活字と母型を受け取ったとされています。(Georg Lehner, p. 14)Lehner氏によると、いくつかの証拠より全ての活字の鋳造がこの時点で行われたわけではないとしています。最終的に科学アカデミーでこの活字が使われるようになるのは、1850年代になってからとのなので、10年以上かかっていることになります。
日本語の研究書にはこのあたりの事情が書かれていないので、美華書館の個々の活字の関係がわかりにくいですが、この背景を知っておくと、美華書館の二号活字が分合であったことはかなり自然に思えます。またLegrandの三号活字よりBeyerhausの二号活字が美しいのは当然だと思います。
楷書体活字
蘇精氏の「美華書館二号(ベルリン)活字の起源と発展」ではKarl Friedrich August Gützlaffの解説がなされています。しかし蘇精氏の研究は重要なポイントを見逃しており、それぞれの事柄がうまく繋がっていないように見えます。
蘇氏によると、楷書体活字はKarl Friedrich August Gützlaffが作成したように書かれています。(蘇精、p.24)彼が活字制作に関わっていたことは間違いないでしょう、ただしLehner氏によると、実際の制作指揮はBeyerhausの義理の弟のEhemann, Hermann Röttgerにより作成されました。(Georg Lehner, p. 127)
Ehemann, Hermann Röttgerは非常に貧しい小作農の出身で、大工や兵役などについていました。その後なんらかのきっかけでBeyerhausと親しくなり、妹Emilie Röttger(旧姓Beyerhaus)と結婚するに至ったようです。彼はロッテルダムで宣教師になる訓練を1829年から1832年の間受けリアウに向けてたったようです。(Ingrid Rolfes, Helgard Weiß, p14, p16)
Lehnerによると、Gützlaffはこの母型を科学アカデミーに献上する代わりに、母型の見返りとして活字を手にしよううと考えていたようで、August Beyerhausは鋳造を担当していました。詳細は分かりませんが母型は最終的に王に献上されることになったようです。この活字の鋳造は1839年に終了し、1840年から利用されているようです。(p.127-128)ただ1846年の時点でも活字のセットは不完全であったとされています。
蘇精氏の「美華書館二号(ベルリン)活字の起源と発展」ではやや事情が異なって書かれているように思います。蘇精氏の文章はおそらくGützlaffの視点から書かれたものですが、Röttgerの視点から歴史を見る方が、私は二号活字の状況を理解できるように思います。Beyerhausとその妹Emilie RöttgerそしてEhemann, Hermann Röttgerの経歴を知っていれば、王に献上することになってもそれほど驚くことではないと思います。いずれにせよ蘇精氏のGeorg Lehner氏両方の情報源を確認する必要があります。
美華書館2号活字
美華書館2号活字に関しては、Lehner氏はほとんど取り扱っていません。私の把握している開発された経緯はおおよそ知られた通りで、先述のChinese Recorderの第六巻第一号に述べられている通りですが、より新しく知られた資料によって情報の更新が必要になっていると思われます。
美華書館2号活字のパンチの数については、1851年のロンドンの博覧会の書体見本を、Dr. Dan Reynolds氏が自身のWebページで公開されており、詳しい数を把握することができるようになっています。これによると父形の総数は4200、その内訳で単体の文字2810、部首105、旁は1295となっています。
リンク先で画像が見られます。
https://www.typeoff.de/2024/02/berlin-foundries-part-3/
ただし小宮山氏が閲覧できなかったと「明朝体、日本への伝播と改刻」で述べている、William Gambleの著作List of Chinese characters : formed by the combination of the divisible type of the Berlin font, used at the Shanghai Mission Press of the Board of Foreign Missions of the Presbyterian Church in the United States of Americaは現在オンラインで閲覧可能になっています。
著書によると、母型の総数は4130あり、内2711が単体の文字であり、1290が三分の二の幅、109が三分の一の組み合わせ用文字としてなっています。非常に興味深い記述として、分合活字の欠点として文字のプロポーションが不恰好になってしまう問題の解決策として、20の母型は二分の一の幅で作ったとされています。二号活字はAugust BeyerhausとWilliam Gambleが作ったものの二つが知られていますが、William GambleはここではBeyerhausのものと明言しており、また実際に幾つかの字形を見る限りAugust Beyerhausのものであると思われます。(ただ後で作られた二分の一を、August Beyerhausが作成したという記述はない。)(Shanghai : American Presbyterian Mission Press, image 3)
ヒエログリフ
小宮山氏は「明朝体漢字活字の開発 連載第7回」の中でこんなことを述べています。
19世紀初頭で大きな書体デザインに大きな影響を与えたイベントに、ナポレオンのエジプト遠征(1800年頃)があります。この時発見されたものが有名な「ロゼッタストーン」でありました。
ロゼッタストーンの発見によりヒエログリフの研究が進み、1822年にJean-François Champollionによってヒエログリフは解読されます。このChampollionの発見を書体関係者向けに端的に説明すると、ヒエログリフは中国語の祖先ではないと言うことがわかったと言うことです。ラテンアルファベットの祖先はヒエログリフであると認識している現代人からは理解できませんが、当時のアカデミーでは漢字の起源はヒエログリフであるという認識が一般的でした。
当時のヨーロッパ人の常識としては、中国語研究≒ヒエログリフ研究でありました。絵文字のように見えるヒエログリフと同じく絵文字に見える漢字は同じ祖先にあったに違いないと言うことです。したがって当時の人間にとってみればそもそも漢字で印刷することはファンタジーだったのかもしれません。(一応付け加えると、Champollionの発見によってJean Pierre Guillaume Pauthierの時代はこのファンタジーが修正を余儀なくされてしまう過渡期でした。)19世紀初期の中国語活字開発は交易や布教という実利というより、エジプトブームと言う文脈で捉えた方がより正確に捉えることができるかもしれません。
このぶっ飛んだ中国語研究≒ヒエログリフ研究を裏付けるかのように、August Beyerhausはヒエログリフのパンチを彫っていました。この視点は大変面白いのですが今はその紹介に留めておきたいと思います。
リンク先でBeyerhausのヒエログリフについて詳しく読めます。
https://www.typeoff.de/2019/02/the-academy-of-sciences-of-the-ussrs-hieroglyphs-font-1928/
まとめ
まだまだわからない点もあるとはいえ、Georg Lehner氏の著書によりAugust Beyerhausの制作活動はかなり明らかになったと言えると思います。また Beyerhausの家族関係を調査することにより、よりシームレスに色々な事柄がつながりBeyerhausが漢字を作成することは自然な流れであったことが理解できます。美華書館の活字の研究には日本語のみならず、英語、中国語、フランス語、ドイツ語なしには高度な研究を行うのが難しいといえます。William GambleやSamuel Dyerといった人物の方が研究が進んでいるのは、やはり英語圏の人物として情報にアクセスしやすいと言うところがあると思います。フランス語・ドイツ語の文献を漁ることで今後も色々な研究成果が出てくるのではないかと思っています。
P.S.
今回はヨーロッパのヒエログリフ研究が活字に与えた影響や、活字サイズの問題についてはあまり言及しませんでしたが、トピックが大きいので近いうちに別研究としてまとめ解説できればと考えています。
資料を提供してくださったDan Reynold氏に感謝。
参考文献
Ingrid Rolfes, Helgard Weiß, Lengericher Frauen Erzählte Lebensgeschichten, 2016
Dan Reynolds, Chapter 6 Type design in German foundries from 1871 to 1914
TypeOff(Dan Reynolds), Berlin foundries, part 3
TypeOff(Dan Reynolds), The Academy of Sciences of the USSR’s hieroglyphs font (1928)
American Presbyterian Mission Press, Chinese Recorder and Missionary Journal Volume 6, 1875
Friedrich Bauer, Hans Reichardt, Chronik der Schriftgießereien in Deutschland und den deutschsprachigen Nachbarländern
Georg Lehner, Der Druck Chinesischer Zeichen in Europa: Entwicklungen im 19. Jahrhundert, 2004
Shanghai : American Presbyterian Mission Press(William Gamble), List of Chinese characters : formed by the combination of the divisible type of the Berlin font, used at the Shanghai Mission Press of the Board of Foreign Missions of the Presbyterian Church in the United States of America, 1862
小宮山博史、明朝体漢字活字の開発 連載第7回
小宮山博史、明朝体、日本への伝播と改刻、「本と活字の歴史事典」、2000年
蘇精、美華書館二号(ベルリン)活字の起源と発展、「書物学 15」、2019年
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