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阪神・淡路大震災から30年

1995年1月17日 5時46分52秒
あの日、私は深い眠りの中に居ました。突然の地響きが鳴り、大地が揺れ、真横になって寝ているのに、自分が上下にジャンプをしている様な感覚、真横にもこれでもかって位に、激しく揺れて恐怖の真っ只中に居ました。
5階建ての集合住宅の5階に住んで居ましたが、家が壊れてしまうと初めて感じました。家の中からは母親の悲鳴が響き渡って居ました。
私は恐怖の余りに叫ぶ事さえ出来ない状況でした。やっと地震が一段楽した時に、母親と父親が部屋に大丈夫だったか?と心配して来てくれました。私は何とか大丈夫と声を振り絞って出した時に、足に違和感を覚えて布団をめくると、部屋の壁が落ちて私の足に乗っかって居ました。怪我は無かったのが幸いでした。兄も怖かったと言いながら、私の部屋に集まる中で、妹だけが爆睡をしていて有る意味で凄い子だなと感心してしまいました。
そこで妹を起こすと、部屋の中が荷物で飛び散って悲惨な状況を見て、何があったのか?不思議がって居たので、大地震の状況を説明しました。父親は直ぐにラジオを聴いて、震源地が淡路島だと知り余りの近さにゾッとしました。
私が5階の窓から外を見ると皆んなが車の中で待機をして居ました。我が家は車が無い家だったのも有り、あの状況の中で外に出る選択肢は全く有りませんでした。母親は大地震の最中に寝室の両端に和ダンスが有り、それらが倒れかかって来て居たので、父親と一緒に悲鳴を出しながらタンスを支えるのに、必死だったとの事でした。
その後も震度4レベルの余震が何回も何回も来て、更に家の中の物がドンドンと壊れて行く中で、父親は仕事に行く準備をしだしたので、私は必死で危ない状況だから行かないでと頼みましたが、父親はワシが線路を直さ無いで誰が直すんだと。当時、父親は国鉄で働いており、線路等を作ったり直したりする仕事をして居ました。こんな時だからこそ、一刻も早くに線路を直さないと駄目なんだと、私の言葉も届かずに現場に余震の中行ってしまいました。残された私達は、とにかく力を合わせて乗り切ろうと一致団結しました。
その時に祖母から電話が有り、母親が泣きながら状況を説明して居ましたが、その最中にも余震が有り話してる最中の受話器を、悲鳴と共に放り投げて余震が止まるまで、叫び続けて居ました。その後に受話器を直ぐに取り直し、とにかく大変だけど怪我人も無く大丈夫だからと伝えて電話を切りました。
電気、水道、ガス、全てが止まっている中で、私は家の中を写真に残そうと思いカメラで撮影をして居ました。当時は今の様に防災グッズ等全く用意をして無かったので、それからの生活は本当に大変でした。私は学生だったので学校を数ヶ月休みました。

電気が1番に回復したので、先ずはテレビを付けて状況を観て居ました。そこには我が家よりも遥かに想像を絶する光景が目に焼き付きました。新幹線の線路が横倒れし、大きなビルが真横に倒れ、大火災が車で避難している人達の直ぐ側まで、迫っているのに大渋滞で車が全く動けない状況でした。私は心の中で車を置いてでも、とにかく逃げてと叫びました。避難所の様子も撮影されて居ました。

忘れられない記憶

私が今でも忘れられないのは、避難所の小学生低学年の女の子が自宅が倒壊して母親が下敷きになり、その子は必死で母親の手を引っ張り、救い出そうとしているのですが、どうしても倒壊された家が母親にのしかかり、全く動かせない状況でした。そんな中で大火災の火が、その母親にも迫って居ました。その母親は、泣き叫びながら娘さんに、お母さんの事は大丈夫だから、とにかく逃げてと何回も叫びました。娘さんは母親の手を離そうとはしませんでしたが、母親が娘さんの手を離して逃げなさいと強く強く叫びました。その娘さんは泣きながら走って逃げて、後ろを振り向いた時には母親が火の中で燃えている光景でした。それから、その娘さんは避難所に辿り着いたとの事でしたが、ショックの余りに一切の声が出せなくなりました。

次に消防署の方が大火災を消化しようにも、水が全く使えなくて目の前で人が何人も焼かれているのを、ただ見る事しか出来なかったと。消防隊の方々でさえ、今まで経験した事が無い大災害を目の当たりにして、何も出来ないという無念さから自死された方も居ました。本当に残酷としか言葉が出なかった。

我が家は幸いにも怪我人が家族には居なかったので、父親が何日も帰って来ない中で母親は買い出しに奮闘して、家族皆んなでバケツで5階まで水を毎日何往復もする生活をしていました。向かいの棟は電気の回復が遅かった為、皆んなが夜になるとテーブルの真ん中に、ロウソウを立てて過ごしている状況を、見て居て頭と心の整理が中々追いつかない日々を送って居ました。
我が家は、とにかく水の回復が遅かった為に、本当にトイレお風呂食器洗い等が不便でした。たまたま私が大地震の数日前に食器にラップを被せて使用したら、洗わなくても大丈夫という内容のテレビを観ていたので、母親に伝えてラップ食器作戦を取り入れさせて頂きました。
何ヶ月か学校も休んでる状況だったので、学校の先生も心配して何回も電話を掛けてくれて居ました。父親が、いつ帰宅出来たのかも覚えて無いです。数週間は帰宅出来なかったと思います。
私は3ヶ月後に、やっと学校に通う事が出来ました。
家の中も家族で片付けて、近所の方々と皆んなが協力し合いながら、やっと元に近い生活が出来る様になりました。

今の私が伝えたい事

あれから、もう数日で30年が経ちます。今の私が伝えたい事が有るとするならば、当たり前の事が決して当たり前では無いと言う事。
日々の暮らしが決して当たり前では無い。
自然も生きているという事。
普段から使用している、物質も生きているという事。
便利な世の中になり、携帯ばかりを観る世の中になり、空を見上げたり空気を味わったり、日々の小さな事にも有難うという、感謝の氣持ちを持って貴重な時間を地球に過ごさせて頂いていると、氣付いて欲しいと心から願うばかりです。

大災害に備える為に、我が家の事しか考えないのでは無くて、皆んなで何かあった時に支え合える様にと、購入させて頂くという御氣持ちは有りますか?どうかご自身の心の声と向き合って、これから明るい未来の為にも、何かの御参考にして頂けましたら幸いです🙏この度は、描く事の御縁を頂きまして有難う御座いました🙏
また能登地震の方々の復興を、1日でも早く進みます様にと、心から願うばかりです🙏
明るい未来の為に、今の私がお伝えしたい事でした😊🌈有難うございました😊🌈

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