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ロアノーク植民地の謎

失われた植民地の歴史とその影響


背景と設立の動機
ロアノーク植民地(Roanoke Colony)は、イギリスが新世界における最初の永続的な植民地を設立しようとした試みの中で、最も謎めいたものの一つです。16世紀後半、イギリスは北アメリカにおける領土拡張を図り、新たな貿易ルートや資源を求めて探検を進めていました。この時期、スペインとの競争が激化しており、イギリスの探検家や商人たちは新たな植民地設立に熱心でした。ウォルター・ローリー卿(Sir Walter Raleigh)はその中心的人物で、彼のリーダーシップの下でロアノーク植民地の設立が計画されました。


1584年の探検と準備
1584年、ローリー卿は最初の探検隊をアメリカ大陸に派遣しました。探検隊の指導者であるフィリップ・アムラス(Philip Amadas)とアーサー・バロン(Arthur Barlowe)は、ノースカロライナ州のロアノーク島に到達しました。彼らはこの地域の豊かな資源や適した居住地を評価し、イギリス本国にその情報を持ち帰りました。その報告は、イギリスの商業的および戦略的な利益を考慮に入れた植民地設立の決定に影響を与えました。

最初の試み:1585年の植民地設立
1585年、ローリー卿は最初のロアノーク植民地を設立するため、約100人の入植者を派遣しました。このグループは主に兵士、職人、そして指導者としてリチャード・グレゴリー(Richard Grenville)が含まれていました。入植者たちはロアノーク島に定住し、農業を開始しましたが、すぐに困難に直面しました。自然環境の厳しさ、限られた食料供給、そして現地の先住民であるコロネの部族との摩擦が、植民地の生活を困難にしました。さらに、イギリスからの支援が遅れたため、植民地は短期間で撤退を余儀なくされました。1586年、入植者たちはイギリスに戻り、再度の試みが模索されることとなりました。

再試みと新たな希望:1587年
1587年、ローリー卿は再び植民地設立を試みるべく、新たなグループをロアノーク島に送りました。このグループは115人の入植者で構成され、その中には家族連れも含まれていました。指導者としてジョン・ホワイト(John White)が任命され、彼は以前の探検隊での経験を生かしていました。ホワイトは、より持続的な植民地設立に向けて努力しましたが、彼の任務は再び困難に直面しました。


ホワイトは、必要な補給品と追加の支援を求めてイギリスに戻りました。しかし、彼の帰国は予期せぬ遅延を招きました。1588年には、イギリスでスペインとの戦争が勃発し、ホワイトは3年間も帰国できませんでした。その間にロアノーク島での状況はさらに悪化し、通信の手段も絶たれていました。


失踪と発見:1590年
1590年、ホワイトはついにイギリスから帰還しましたが、ロアノーク島に到着すると、植民地の全ての痕跡が消えていました。入植者たちの行方は不明で、島にはほとんどの物資や建物も残っていませんでした。ただ一つの手がかりが残されており、それは「CROATOAN」と刻まれた文字でした。この文字は、植民地の北に位置するクロアトアン部族の地域に移動した可能性を示唆していると考えられましたが、具体的な証拠は見つからず、入植者たちの正確な行方は不明のままとなりました。


謎と影響
ロアノーク植民地の失踪は、北アメリカ植民地の歴史の中で最も神秘的な出来事の一つとされています。この失踪事件は数多くの理論や仮説を生み出しました。主な説としては、入植者たちが飢餓や病気で死亡した、あるいは先住民との戦闘で命を落とした、または他の地域に移動したとするものがあります。さらに、いくつかの説では自然災害や内部の対立が原因である可能性も指摘されています。


ロアノーク植民地の失踪は、アメリカの歴史や探検の物語において大きな影響を与えました。この謎は、探検家や歴史家たちの興味を引き続け、数多くの研究や調査が行われています。また、ロアノーク植民地の歴史は、アメリカ植民地の成立に関する重要な教訓を提供し、人間の好奇心と探求心を刺激する象徴的な存在となっています。


この歴史的な謎は、今日でも多くの書籍やドキュメンタリーで取り上げられ、探検や歴史に対する関心を新たに呼び起こしています。ロアノーク植民地の物語は、歴史の中で解決されていない多くの謎の一例として、私たちに過去の探求と発見の重要性を思い起こさせるものです。



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