見出し画像

サンプルシナリオ①『実家に残してきた義妹がグレているらしい』

●タイトル:
実家に残してきた義妹がグレているらしい

●ジャンル:
義妹成長系

●ボリューム:
37KB(約18500文字)

●執筆時間:
19時間

●スタイル:
WEB小説
メッセージボックス内制限 なし

●あらすじ:
3月。リフォーム前の大掃除を手伝うために1年ぶりに東京から片田舎の実家へと戻ってきた大学生・広瀬灰斗は、誰に対しても礼儀正しかった義妹・黒奈が連日のように夜な夜な外出していたことを知る。幼馴染たちからも良くない証言を聞いた灰斗が実際に本人と会話を試みると、話に反して黒奈は誠実な対応を見せ、外出についても正当な理由があることを打ち明ける。一時は納得した灰斗だったが、幼馴染の助言により微かな違和感に気づく。夜中、妹と偶然会話する機会を得た灰斗は、「素直さ」について悩む黒奈に兄としての言葉を掛ける。

●目的:掛け合いと地の文、それなりのオチ

●キャラクター:
・広瀬灰斗(ひろせかいと)
大学新2年生。広瀬家の長男。愛称はカイ。
低身長、女性的な顔つきのため男として見られないことが悩み。中学から一人称を「僕」から「俺」に変えてみたが特に意味はなかった模様。
見た目:小柄・童顔

・広瀬黒奈(ひろせくろな)
高校新3年生。灰斗の妹。愛称はクロ。
幼い頃に広瀬家に養子として引き取られた。
才気煥発で誰に対してもに敬語を崩さない……はずだが最近グレたらしい。
見た目:小柄・黒髪

・浅宮詩音(あさみやしおん)
大学新2年生。灰斗の幼馴染その1。
常に自然体で友達も多いが中身は残念な中二病。
見た目:中肉中背・茶髪(暗め)

・御手洗鈴(みたらいすず)
大学新2年生。灰斗の幼馴染その2。
高身長で多弁。灰斗を溺愛しているかのような言動が多い。
見た目:大柄・茶髪(明るめ)

・御手洗健治(みたらいけんじ)
大人。鈴の兄。愛称はケンさん。
頼れる兄貴分であり生粋の遊び人。シスコン。
見た目:大柄・筋肉質

・広瀬正次(ひろせまさつぐ)
灰斗の父。

※サムネイルにはAIイラストを使用


ほぼ1年ぶりに帰ってきた実家はいつも以上に活気に満ちていた。俺は車を車列の端、まだ青い麦畑の隣に止めると、ちょうどゴミ袋で満載のトラックに乗り込もうとしていたケンさんと目が合った。

「久しぶりです!」
「お、灰斗じゃねぇか!久々だねぇ」
「すみません。去年はバイトを詰めすぎて中々戻ってこられなくて。ケンさんも来てくれてたんですね」
「正次さんたちには何度も世話になってっからな。こんくらいは序の口ってもんよ」

正次というのは俺の父の名前だ。代々地主をしていた名残りで現在も村のまとめ役として働いている父はその性格の温厚さ故か村の住民たちからの信頼が厚い。ケンさんの名前も父が命名したものらしい。

「ところで東京での暮らしはどうだ?彼女の1人2人くらいは出来たんだろうな?」
「あー……とにかく人が多くて疲れます。あとやたら忙しくて。こっちのゆったりした生活が恋しいですよ。だからまあ今は生活に慣れるのが先というか……」
「なんだよ、大学生にもなってまだ童貞なのか」
「ぐっ」
「はー、弟分のお前がそんなんで俺は悲しいよ。せっかくお前は正次さんのいい遺伝子を貰ってんだから。身長だけは貰えなかったけど」
「ぐぐぐ」
「そうだな、後はもっと積極的に行かねぇと落とせるもんも落とせねぇぜ?俺みたいにどんどん女の子にアタックしねぇと」
「いや、ケンさんみたいにするのは流石に無理がありますって!」

女性関係でのケンさんの武勇伝は上げればキリがない。曰く、中学時代には既に経験人数が二桁に乗っていた。曰く、高校の修学旅行では旅館の若女将を妊娠させた。曰く、大学ではサークル内の生徒だけでなく顧問(既婚)を含めた全ての女性と身体の関係を持った……等。決して褒められた内容ばかりではないが、それでも彼の男としての強さ、みたいなものには憧れる。
ケンさんと違って俺は線も細ければ顔立ちも女性的だ。同年代の女性、いや男友達と話している時ですらどこか可愛がる対象として見られている気がする。もしケンさんの男らしさの10分の1でも俺が持っていれば今頃バラ色の人生を送っていたかもしれない……いや、隠語としての薔薇じゃなく。

「ところで掃除の進捗は今どのくらいですか?」
「ああ、とりあえず今は各々の部屋の不要物の整理が終わってコンテナに残しとく物を詰めてる段階だな。んで、俺は今からコイツで捨てに行く」

ケンさんがバンバンとトラックを叩いた。荷台には古い机や割れた壺、大量のごみ袋が積まれていた。

「これで今日2回目なんだが、まだ全然だな。いくら捨てても次から次へと湧いてきやがる。どんだけ広いんだよ、この家」
「俺も手伝いましょうか?」
「いんや。お前は中を手伝ってくれ。さっきから詩音ちゃんがこれ捨てていいのか分かんない~って困ってたから、さっさと行ってやりな」
「あぁ、あいつも来てるんですか」
でもあいつ掃除下手だしな……ケンさんと違って別に嬉しくないや。
「てことはすずも?」
「ん?まあそうだが……おい灰斗、まさか東京で彼女作れないからってウチの妹に手ェ出すつもりじゃねぇだろうな?」
「またそれですか……別にそんなつもり一切ないというか、むしろ迷惑してるのはこっちというか……」
「あぁ?まさかお前うちの可愛い可愛いすずが女として一切魅力がないって言いてぇのか。シメるぞコラ」
「ぐぇ……それ絞める前にいう台詞……!」
理不尽すぎる。ほんと妹が関わってくると本当にろくでもないなこのダメ男は。そういえばダメ男と伊達男って語感が似てる。
「ま、そーゆーことだから早めに頼んだぜ。流石に捨てていいのかの判断は家のもんがやんねぇとどうにもならねぇからな」
「はーい。父さんたちに挨拶したらすぐ……ん、そういえばクロは?」
俺は唯一の兄妹の名前を出す。あの子がいればある程度は判断がつきそうというか、むしろ俺以上に手際よく処理してくれるだろう。自慢じゃないが村中、いや俺の東京の知り合い全員を含めてもクロ以上に何事もそつなくこなす人間は見たことがない。
そう思ってケンさんを見ると、彼はぽかんと口を開けた。
「……まさか灰斗、お前何も聞いてねェのか?」
「え?」
「去年の盆は……あー、そういやバイトが忙しいとか何とか言って結局帰って来なかったんだっけか」
「え? え?? なんです、黒奈になんかあったんですか?」
「あー、いや……黒奈ちゃんは……その……」
いつも歯に衣着せぬ物言いのケンさんが今日に限ってどうも歯切れが悪い。まさかクロに何かあった?そういえば去年の夏は学校の用事だか何だといって結局一回も会えなかった。もしかして事故とか病気とかそういう……
「黒奈ちゃんはな……グレたんだ」
「……へ?」

■■■

父と母、それからばあちゃんに顔を見せた俺は、挨拶もそこそこに軽く昼飯を掻き込み、すぐ離れへと向かった。

歩くたびにミシミシと音を立てる外廊下はいつ壊れてもおかしくなさそうだった。ばあちゃんの年を考えるとなるほど早急にリフォームをする必要がある。表向きはどっしりとした柱、凝った意匠つきの屋根瓦、何十人と座ることができる広々とした畳の間など大層立派な日本家屋に見えるが、実際は至るところが白アリに食いつくされたせいで現代の耐震基準を大幅に下回り、どれだけ直しても台風シーズンには毎回数か所から雨漏りし、畳の隙間からは絶えず隙間風が吹き荒れて冷暖房の利きが悪いという相当な残念仕様だ。

少子高齢化で村の集まりの規模も頻度も年々減少している昨今ではこんな広い部屋を持ち続けても維持が大変ということで、今回のリフォームを機に幾つかの部屋は洋風に変えたり取り潰したりするらしい。今から向かう離れもそのひとつだ。

これも時代なんだろうな、とか思いながら廊下を渡り終えると、そんな一抹の寂しさを吹き飛ばすような騒がしさが待ち受けていた。

「見て見て詩音ちゃんこれ凄くない!? まさに芸術じゃない!? こんな意味深長な線の集合体思いつくのはバーコードの生みの親か〇本アニメの企画スタッフか我らがカイくんだけだよ!」
「えー、これどうみても身長を刻んでるだけじゃない?」
「はっ、つまりこの柱にはカイくんの今までが全部詰まってるってわけ!? きっと毎日ここで背筋を精一杯伸ばしてちょっとでもいい記録が出るようにって祈ってたんだろうな~もっと早くに気づいてたら私の成長記録も一緒に刻んでたのに~!」
「鈴ってたまに酷なこと考えるよねー。バスケ部のエースだったあんたの記録と毎日比べられたらカイきっと二度と立ち直れない傷を負ってたよ」
「もー分かってないなーそうなったら私が精一杯慰めてあげるしそれにふたりの息子にその夢を託すことだって……あれ? この匂いは我が愛しのカイくんじゃんひっさしぶり~!」
「ちょ……うわっ!?」

急に開かれた障子から飛び出してきた女性に押し倒される。

「えへへ本物のカイくんだぁ相変わらず可愛いなぁってちょっと痩せた? やっぱり都会の荒波に呑まれて四苦八苦しながら日々を藻掻いているんだねそんな健気な姿もまた庇護欲をそそられるなぁそうだ工事中はうちに泊まるのはどう? ここみたいに広くはないけど汲めども汲めども尽きることのない無償の愛だけは永年飲み放題プラン開催中さあ二人の愛の巣へ急げ!」
「うるさいし……っ、重いっ!」
あと何がとは言わないが大きいし柔らかい。
「おひさー。あれ、確かにちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの?」
「詩音までそんなこと言うなよ。ちょっと心配になるだろ。てか助けてほしい」
「はいはい。ほら鈴、あんたそろそろその癖直しなさいよ。もう子供じゃないんだから」
「えーでも私は子供じゃないからこそこうして肌と肌で触れ合いたいってゆーかーむしろ子供を作るため積極的に癖付けたいというかー」
とか言いつつ解放してくれな……解放された。すずは快楽至上主義のように思えて意外とこちらを気遣う心を持っているから思ったより良い奴……って駄目だ、DV彼氏のちょっとした優しさが刺さる彼女現象が発生してる。そもそも俺は男だ。
「……ふぅ。で、俺は何をやったらいい?なんかケンさんが捨てる判断をしてやれって言ってたけど」
「あーそれそれ。そっちの山は全部捨てていいか分かんないやつだからカイが何とかしてよ」
「了解。どれどれ……って、明らかにゴミが混じってるんだけど」
「え、そう? 私としては結構厳選したつもりだけど」
「ほら、この辺の賞味期限切れのゼリーとか」
「あぁ、それ昔よく皆で食べたよね。懐かしかったから一応取っといた」
「数学の課題プリントとか」
「あーそれはいつか復習するときに便利かなって。ほら、今って数学の力が大事っていうじゃん?」
「壊れた安物の腕時計とか」
「いやー、こんなのも何十年後には案外結構な価値がついてたりして。それに止まった時計って何か封印されし壮絶な過去的なものが……あ。いや、やっぱ今のなし」
「……じゃあ逆に何を捨てたのさ」
「うーん……埃?」
「馬鹿」
「なっ、バカって言う方がバカなんだけど!? 全く……これだからバカは」
駄目だ。やっぱり詩音は使い物にならない。常に自然体で友人も多い彼女は高校では生徒会副会長を担うほど人望があったが、肝心の中身は正真正銘のポンコツだ。勉強は並だがどこか抜けてる部分があるというか常識が偏ってるというか。普段は普通なのにたまにとんでもないことをやらかす恐ろしさが詩音にはある。しかも大学生にもなってまだ中二病が抜けてないらしい。
「詩音の分はもう一度チェックするとして……」
「どうかなカイくん私的には結構いい感じに分けられたと思うけど一応微妙そうなのは真ん中に置いてるから最終的な振り分けはやっちゃってよ!」
「……やっぱり家事関連だとすずは完璧だよね」
完璧に分けられてるどころか既にコンテナ詰めまで終わっている。入れた物が汚れないようにビニール袋で覆ってあり隙間には緩衝材として新聞紙が詰められているという徹底ぶりだ。なぜ同じ人間でこうも差が生まれてしまうのだろう。
「じゃあすず、真ん中のはとりあえず全部残しておいて。それからごめん、詩音の分もすずにお願いしていいかな? 詩音はごみでも運んどいて」
「はーいっ、おおせのままにー!」
「……なんか扱い違くない?」
「俺は成果主義だから」
「それが都会人ってやつですか。はー、カイも染まっちゃったねぇ」
「成長と呼んでよ。てか2人が変わらなすぎ」
逆にうちの妹は変わりすぎたらしいが。

■■■

「おっとと……」
「大丈夫?」
よろめいた詩音を肩で支える。モデル体型の鈴と違って平均的な身長である詩音ですら俺よりも少し背が高い。だから寄りかかる杖としてはちょうどいいサイズだろう。俺の低身長が活きる数少ない場面。ちなみに全然嬉しくない。
「ん、ありがと。はぁ、疲れた~。肩凝った~」
「うちの父さんみたいなこと言うね……痛い痛い危ないから蹴るな」
「せめて女の人で例えてよ。ほんとデリカシーないんだから」
「ん、そういや母さんもばあちゃんも肩が凝ったなんてあまり言わないかも。肩こりって性差あるのかな?」
「言わないだけでしょ。あたしとか結構困らされてるよ」
「ふーん」
まあ胸がついてる分逆に凝りそうだよね、と言おうとして止める。普通にセクハラだ。
その代わり、と言っては何だけど俺は他に人がいないのを確認し、ずっと気になっていたことを口に出した。
「ところでさ、クロがグレたって本当か?」
「へっ!? いや……うわあっ!?」
「っ!?」
またもや盛大によろめいた詩音を咄嗟に支える。
「……ふぅ~~セ~~フっ。廊下にゴミ袋ぶちまけなくて済んで良かったよ~~。ごめんね、何度も支えて貰っちゃって」
「いんや、いい加減慣れたから別に気にしてない」
「それ何か私への諦め入ってない?」
むしろそれ以外に何があるんだ……なんて返してもまたうるさくなって面倒なので話を進める。
「だけど詩音の反応を見るにケンさんが言ってたのは本当だったのか……」
「う~ん、まあ皆そう言ってるね。実際今までのクロには考えられないことばっかしてるし」
「グレたって具体的にはどんな感じ?」
まさか夜な夜な街に出かけて大勢の不良たちと危ない遊びに手を出してるとか?いや、流石にあの真面目だったクロがそこまで……
「えーと、おばさんに聞いた話だと夜な夜な外に出かけて……」
「なっ、まさか本当に不良たちと危ない遊びを!?」
「いやそこまでは知らないけど……でも外に出たきり帰ってこないんだって」
「何だって!?」
「それでそのまま学校に行ってるみたいで、帰って来てからは寝てばかりで、そこからまた夜になったら外に出てって感じらしくて。そういうのがいつからだったかなー、もう結構長いこと続いてる。化粧とか香水なんかもするようになってさ。一回正次おじさんが叱ろうとしたらしいんだけど、クロに『子供の自主性を重んじるんじゃなかったのか男のくせに二言を吐くんだなみっともない父親は嫌いだ顔も見たくない』ってな感じであっけなく撃退されて」
言葉のナイフどころかマシンガンだ。ただでさえ痛みがちな父さんの胃壁がハチの巣だ。
「私たちともあまり話してくれなくなってさー。今回の掃除でも整理手伝うよーって言っても1人でいいってすげなく断られちゃった」
「あれ、掃除には参加してるんだ?」
「あれ、知らなかったの? うん、最近は多少心を入れ替えたのかなんやかんや手伝ってくれてる。ただ皆と一緒に居たくないみたいで1人で蔵の整理をやってるけど。たまに外に出て何かしてるみたいだけど、その時も事務的な会話ばっか。ちょっと寂しいよね」
流石に家族としての義務を放棄するほどではなかったか。となれば活路はありそうだ。だが一時期は朝帰りですらなかったとは。しかし聞いた感じだと変則的ではあるがある程度規則的な生活は送っているらしい。となると単にグレたというよりは……

土間に並べられた大量のサンダルのひとつを履いて駐車場に出る。さっきケンさんが捨てに行ったばかりなのに既にゴミ袋が5,6個転がっていた。そこに俺たちが運んできたものも追加する。
「んー、なんか勿体ないねー。もしかしたらこの袋の中にとんでもない価値のお宝が……ちょっと開けてみていいかな?」
「そんなカラスじゃないんだから。それより詩音。一旦運び出しを任せてもいいかな? クロに声をかけたくて」
「あー、どうだろ。やめといた方がいいんじゃない? あの子『絶対に誰も入ってくるな』って言ってたし。多分すっごく不機嫌になると思うよ」
「まあ多少怒られるくらいは覚悟してるさ」
「いーやあれは多少なんてレベルじゃないね。誰だったかな……一回誰かがいい加減子供じみた真似はやめろって言いに行ったんだけど見事ボコボコに言い負かされて涙目になって帰ってきたって話」
「どうせ父さんだろ。それよりいると知ってたのに声をかけない方が問題だよ。なんか腫れ物扱いしてるみたいでさ。そういう態度が居づらさを助長してクロがますますグレる道しか選べなくなりそうで」
「それはそうかもだけど……いや、でもあれだけクロに懐かれてたカイならあるいは……うーん」
「なんか煮え切らない反応だけど。気になることでもあるの?」
「その……ここだけの話ね、実はクロって本当はグレてるんじゃないと思うの。もっと別の理由があると私は思ってて……」
「……ああ、実は俺もその可能性についてはちょっと考えてて」
「へー、やっぱりカイも気づいたんだ」
「まあ、薄々だけど」
真面目だった妹が今までの生活を放棄するほど心を惹きつけてやまない存在。そして彼女の年齢、化粧をするようになったこと、そして家意外でどこか寝る場所があるという事実。それらを満たすものは自ずと限られてくる。
「私の想像だと……」
先ほどよりも深刻そうな顔をした詩音の次なる言葉はきっと俺と同じで……
「……きっと彼女も"選ばれた"んだと思う。だから常人との接触を避けてるの。そうしないと周囲に危害が及ぶから。今は誰もいない蔵の中で"魔法陣"を描いて"星海戦争"用の"召喚の儀"を」
「君に聞いた俺がバカだった」

■■■

敷地の角に位置する我が家の蔵は不要品がとにかく多い。トラクターなどの農機具や2人くらいまでなら入れそうな大きな桐の箱、他には家具や土産品、細々した物などが特に整理されないまま放り込まれている。とはいえ居住区とは物理的に分かたれたここは今回の工事の対象外となっていたはずだが、あまり宜しくない方向に成長したらしい我が妹は頑なにここに引き籠っているらしい。まあ工事が始まったらここに荷物を移動させるので全くの無意味かと言われるとそうではない。元から仮置き場としては十分なスペースが残っていたことを考えると多少優先順位は落ちるとはいえ、工事完了後にまた搬入作業があることを考えるとある程度整理した状態で保管する必要がある。蔵の混沌具合を考えると誰かひとりはここの整理に当たる必要があった。その担当が力の弱いクロであるべきかと言われればまた議論の余地が生まれるが。

砂利道を通ってその正面へと辿り着く。下半分が木造、上半分は土壁に漆喰を塗った古風な建物の引き戸には『立入禁止』の張り紙があった。さてどうしたものか。
「……何か聞こえないかな」
耳を押し当てて中の様子を窺う。……時折風でガタガタ鳴る以外は特に何も聞こえてこない。細かい整理をしているのだろうか。それとも中でサボっていたり……
「誰」
「うわっ!?」
急に後ろから声をかけられて心臓が飛び跳ねる。いや、それよりこの声は。
「く、くくっ、クロ!?」
「ん、なんだ兄様ですか。お帰りなさい。新天地での生活にはもう慣れた頃合いでしょうか?……どうしました、そんな死人を見たような顔をして」
クロの情報を五感が取得するたびに混乱が深まっていく。最初の冷たい口調は? その香水は? 少しやつれた? それより夜外に出歩いてるっていうのは本当? 聞きたいことが無限に湧きあがるせいで言葉が上手く出てこない。
「……ああ、私のことをどなたかからお聞きになられたのですね。というより最後に兄様と話したのはもう2年前ですから戸惑うのも無理はないでしょう」
クロはさらりと肩にかかった黒髪を流した。その動作すらも妙に洗練されていて、まるで他人に見せることを前提としているようだ。やはり、という気持ちが大きくなる。
「積もる話もありますし、ひとまず中に入りませんか。ここは陽射しが眩しくて敵いません」
クロがからりと引き戸を開けた。その先はまるで時が止まっているかのように静謐な空間が広がっていた。

■■■

「さて……いざ話すとなればどう切り出せばいいのか迷いますね。とりあえず飲み物でも用意しましょうか。珈琲と紅茶、どちらがよろしいですか?」
「……あ、ああ。じゃあコーヒーで」
久々に聞いたクロの声に意識を奪われていて反応が遅れてしまう。だが彼女は特に気にした様子もなく軽く頷いた。
「分かりました。とはいえ所詮インスタントですので味は期待しないでいただけると助かります」
すずが名前のように鈴を転がしたような賑やかな声だとしたらクロは黒艶のある落ち着いた声だ。こういった静かな場所での彼女の声はすっと空間に染みわたるようで不思議と聞き入ってしまう。ちなみに詩音は詩情あふれる音でも紫苑の花のような可憐な音でもない。ただの中二病だ。
クロは誰に対しても敬語を崩さない。それは俺だって例外じゃない。これは彼女と初めて出会ったときからの習慣だった。家族なんだからもっと気楽に接してくれて構わないのに、といつも思う。実際に言ったこともある。しかし本人に丁寧に断られてしまってはこちらとしてはそれ以上距離を詰めることもできない。だから俺はクロのことを大切な家族だと思っていても心の底まで見通せるほど親密という訳ではない。だから今、久々に彼女と2人きりで話すことになって情けなくも緊張していた。勿論、これから話す内容もそれに拍車をかけている。

こぽこぽと電気ポットからお湯が落ちる。蔵に湿気はあまりよろしくないようにも思えるが、これだけ広ければそこまで気にすることもないだろう。それにここにおいてあるものはそこまで重要でもない。
馥郁たる香りとやらがふわりと広がる。クロが淹れてくれたコーヒーで唇を湿らせ、その暖かみに勢いを得たように俺は口火を切った。
「ところでクロ。その……最近調子はどう?」
「はぁ、兄様も父上のような回りくどい探り方をするんですね。やはり血は争えないということでしょうか」
「うぐっ」
訂正。そんなに暖かくなかった。
「まぁ……悪くない、とは思っています。尤も、そんなことを言われても到底信じられないでしょうけど」
あれ? 意外と口撃してこない。聞くところによると触れるもの全てを傷だらけにするみたいな印象だったのに。
「まあ毎夜外に出歩いてるなんて聞かされたらね……それで、その話は本当なの?」
「やはりそのことでしたか。ええ、真実です。少し前までは毎日午後10時頃より市内へ出向いて、そのまま学校に行っていました」
「それはどうして?」
「それは……」
クロは目を逸らして言い淀んだ。これまた珍しい。彼女はどんな時でも言葉につまることなくすらすらと自分の意見を言う性格……ってそれは昔のことだった。
「……こうなっては仕方ありません。兄様だけには私の秘密を打ち明けましょう。はぁ、本当は誰にも知られたくなかったのですが。仕方ありません。兄様だけには特別です」
「いや、無理にとは言わないけど」
「……む。ふーん。じゃあ本当に知らなくていいんですね。もう絶対一生金輪際教えませんけどそれでもいいんですね。ああなんて薄情な兄でしょう。妹の変化についてこれっぽっちも気にかけないなんて」
「俺が悪かったです本当はすごく知りたい」
「全く。つまらない手間をかけさせないで下さい。時間の無駄です」
日本的な気遣いの心をつまらないの一言で片づけられてしまった。まあ今回は向こうから打ち明けてくれようとしていたからそれを断った俺が悪い。
いや、本心ではきっとこれからの話を聞きたくないという気持ちが少しあったんだろう。妹の色めいた話を聞く覚悟が出来てなかったんだ。
ああ、もう引き延ばすことはできない。腹をくくれ。俺よりも早くできたことはショックだけど、ここは兄として妹の門出を祝ってあげるべきだ。
「……」
クロがため息をつく。長い睫毛がゆっくりと閉じられたかと思うと、意を決したように開かれた。
「兄様。実は私、バイトを始めたんです」
「おめでとうクロ。正直かなり驚いてるけど、俺はクロのこともクロが見初めた男のことも信じるよ」
「は?何言ってるんですか」
「え?」

■■■

「……つまり、工事で逼迫した家計を少しでも支えるために自分でも稼ごうと?」
「はい」
「深夜バイトの方が賃金が良かったから学校が終わってから家で眠っているだけで、別に彼氏の家に寝泊まりしていた訳ではないと?」
「はい。何度言わせたら気が済むんですか」
「なんだ……びっくりさせるなよ……」
「妹としては兄様の脳内がそこまでピンク色だったことの方がびっくりなのですが」
クロは少しむすっとした様子だった。だが良かった。いや、別にクロに先を越されたのが兄として情けないとかそういうことを思った訳ではない。ただ彼女の親を心配させることを厭わないような相手に惚れ込んでしまっていたら今後のクロの人生が心配だったというだけだ。本当だ。
それに家計を支えるという話も納得できる。うちは敷地だけは広いが決して富裕層という訳ではない。もしそうならとっくに工事していたはずだ。それなのに今の今になるまで中々決心がつかなかったというのは単に伝統的な景観を残したかったという理由だけじゃない。中々世知辛い世の中だ。実際の所、黒奈が大学に行く費用を残しておくためにも今回の工事は寝室や台所、風呂場など生活に直結する部分だけを主に改装する予定だった。
「それにバイト先もそんないかがわしい感じじゃないって言うし、本当に良かった」
「妹としては兄様にそんな嫌疑をかけられていたという事実が良くないのですが。別に私は健全な学生生活……とは言えないですが、少なくとも性に奔放な訳では決してありません。もし心配ならバイト先の店主に連絡してみましょうか?」
「いや、そこまでクロのことを疑ってはいない。しかし喫茶店か……そういえばこのコーヒーも普通のより美味しいような」
「だからインスタントだと言ったでしょう。そういった上辺だけの世辞はやめてください……まぁ、一応インスタントにしてはかなり良いものを頂いてはおりますが」
「ううん。きっとそれもあるだろうけど、一番はクロが淹れてくれたからだと思う」
たとえインスタントとはいえやっぱりプロと初心者では蒸らし方とかお湯の温度とか量とか細かい部分の引き出し方が違うんだと思う。クロは正確にはバイトだけど、何でもすぐに極めてしまう彼女ならきっと既にその道のプロも顔負けの技量なんだろう。
「……そ、そうですか。それならこれから毎日淹れて差し上げても吝かではありませんが」
「それは嬉しいな。掃除中疲れたらここに寄らせてもらうよ。あ、でもバリスタ見習いなら家でも豆を挽くところからした方が良いんじゃないの? 練習もかねてさ」
「それは勿論ですが、たかだかバイトのためだけにグラインダーやら何やらを買うつもりはありません。というか本末転倒です。単に時給が良かったからそこで働いているだけですし。別にコーヒー自体には特に思い入れもありません」
「そういうものなんだ」
「そういうものなんです。もし兄様が私が手ずから挽いた豆のものを飲みたいというのであれば用意しますが」
なるほど。器用で飽き性なクロらしい。
「でも、なんでバイトのお金を家計につぎ込もうとしたの? クロの努力を否定する訳じゃないけど、正直なところ皆が暮らせなくなるほどお金が足りない訳じゃないでしょ? 貴重な受験勉強の時間を削ってまで今すぐ稼がないといけない理由はないと思うけど」
「そうですね。特に理由はないのですが……大学入試の範囲の勉強は1年の頃には大体済ませておきました。別に3年になったからといえ特段焦る必要はありません。志望校判定も入学時からずっとSです。だから強いて理由を挙げるのであれば暇だったから、ということになるでしょうか。折角だから暇な時間で社会経験を積みたかったという程度のものです」
「さ、流石だね……」
何と言うか……別世界すぎて理解できない。こちらとしてはそういうものなんだと飲み込むことしかできない。
「な、なるほど。とりあえずクロがちゃんとした理由で出歩いていたみたいで良かった。でもそれを理由に父さん達に心配をかけるのは駄目だよ。それこそ本末転倒だよ」
「申し訳ありませんがそれは受け入れられません。もしも真相を知れば父上は必ずバイトを辞めさせようとするはずです。目標金額に達するまでは表に出さず、いざという時に一気に渡す方が受け取る側も引くに引けない状況を作り出せますから」
「それはそうかもしれないけど……」
「あと単純に最近の父上は鬱陶しいです。詩音たちを使って娘の交遊関係を把握しようとするのは正直キモイです。無駄に髪の毛触ってくるのも生理的に無理です。下着とか絶対一緒に洗いたくないです」
「あー……」
どうやら自業自得だったらしい。というか俺から見た父さんはケンさんたちが慕うような真面目な人のイメージなのに。前々から何となく知っていたがいざ実体験として語られると地味にショックがでかい。
「はぁ。早く大学に入って1人暮らしがしたいです。この家は窮屈すぎます」
「うちより広い家なんてそうないと思うけどね」
「敷地面積の問題ではありません。心情的な問題です。家族だからといって四六時中一緒に住まなければならないというのは面倒です」
「それでもバイト代は送ろうとするんだ」
「まあ言ってしまえば手切れ金です。これ以上あの父上と一緒に暮らしていては精神が持ちません。はぁ、こんなことなら海外の大学に受験すればよかった。我が国の教育機関も飛び級制度をより積極的に取り入れるべきです」
「……」
「なんですか? 黙ってにやけられると反応に困ります」
「いや、嬉しいなと思って」
「? 意味が分かりません」
「意味が分からないように言ってるからね」
グレてたと思っていたクロが実は家族想いだったと分かったから笑った、なんてことを言ったら彼女は怒るだろうから。さっきは手切れ金だなんて言い方をしていたけど実際のところは照れ隠しだろう。でなければ今バイトを休んで家の掃除を手伝っている状況が矛盾してしまう。きっと父への過度な反発心もここまで育ててくれたことへの感謝の裏返しに違いない……多分。
「なんだか釈然としませんが……まあ私の話はこんなところです。とはいえ荷物を整理しないといけない今はバイトを休んでこちらを手伝っていますが。また工事が始まったら前と同じ生活に戻る予定です」
「ごめんね、僕も頑張るよ」
「? なぜ兄様が謝るのですか?」
「いや、俺は自分のことで精一杯なのに、クロは家のことを考えて動いてくれてるから。俺ももっとバイトに入る時間増やしていくらか送ろうかな」
「え、いえ。これは単に私が勝手にそうしようと思っているだけで、別に兄様がそのようなことをする必要はないと思います。むしろ謝るべきなのは私の方で」
「妹がこれだけ頑張っている時に黙ってみてるだけの兄なんて情けないだろ?」
「いいえ、私が兄上のことをそのように思うはずがありません。だって兄様がここに来られたのも……」
「じゃあせめてここの掃除を手伝わせてよ。重い荷物も多いだろうし」
クロが何か言う前に立ち上がる。床はカラーテープで区画分けされており、それぞれ茶の間、土間、台所など部屋ごとに荷物を纏めるようになっている。工事前後の間取りの資料や家具リストなども見える。どうやら蔵の整理だけでなく荷物の搬入のことまで考えてくれているようだ。しかしカラーテープの一部がミシン台に阻まれて途切れていた。
「よっと……これどこに運べばいい?」
「あ……え、えと。そちらの用箪笥の隣に置いて頂けると……ですが兄様、あまり無理して運ばれては……」
「このくらいは大丈夫だよ。それに今はあんまり他の人に会いたくないんでしょ?だから俺に任せてよ。大丈夫、引越センターのバイトもやったことあるから多少は慣れてるんだ」
「そ、そうですか……申し訳ございません」
それから2人で蔵の整理をした。最初は俺への罪悪感からかおどおどしていたクロも最後の方はほんの少し柔らかな笑顔を見せるようになっていた。

■■■

「……っていう感じで意外と普通に話してくれたよ」
「え、嘘。そんなことある?」
「いや、そんなことあるって言われても」
「だってホントに触れる者全てを傷つける孤高の狂戦士みたいだったんだよ? にわかには信じがたい……あ、そのコロッケ私が目付けてたんだけど」
「じゃあさっさと取りなよ……ほら」
自分の皿に乗せようとしていたコロッケを隣で胡坐をかいている詩音の皿に……
「お、やったー」
「あ」
ぱくっ。
置く前に詩音はそれを俺の箸ごと頬張った。
「もぐもぐ……んー、おいひー」
「ねえ詩音、君も年頃の淑女なんだからもっと恥じらいを……」
「ん~? なんれぇ?」
リスのように頬を膨らませながら呑気な声でそう寸評する詩音に羞恥の色は見られない。幼馴染とはいえこの年頃になれば普通は恥じらいが生まれてもおかしくないと思うのだが。高校まで毎週のようにうちで夜ご飯を食べていたからだろうか。それとも恋愛感情というものが未発達? 俺に男性としてこれっぽっちも魅力がないという可能性だけは信じたくない。
「ふーんまあでも私はそうなるんじゃないかなって思ってたかなクロたんはカイくんのこと前からすっごく気に入ってたし逆に私は嫌われちゃってるけどでもそういうところも可愛いんだよね本人は気づいてないみたいだけど不機嫌になったらツンって顔を背けるところとかペットみたいでいつまでも愛でていたいなぁカイくん早く結婚して私をクロたんの義姉にして!」
「こっちはこっちで恥じらいがない!」

父さんやケンさん、他に手伝いに来てくれた大人の面々が向こうの仏壇のある部屋で酒を飲んでいる横で、まだ二十歳になってない俺たち子供組は茶の間の座卓を囲んで皆で夜ご飯を食べていた。田舎だからって全員が全員未成年飲酒をするわけではない。俺たちのような清く正しい大学生も存在するのだ……というか酔っ払いたちのダル絡みに巻き込まれたくない。
「ふーん、家計の足しにバイトをねぇ。クロがそんなこと考えてたなんて全然気づかなかったなぁ」
「あの子は心根は素直で優しいから。ただちょっと素直になれないだけで。だから今はそっと見守ってあげるのが良いんじゃないかな」
「まあ昔から手がかからない子って感じだったから私たちは別にそれでいいんだけど、やっぱりちょっと寂しいよねー。ご飯も一緒に食べられないなんて。おばさんおかわりー!」
「……ほんと詩音は変わらないなぁ」
「うんうんそれがあの子の最大の美点だなって私も思ってたり」
台所に向かった詩音はそこで母さんと談笑を始めたようだった。倍以上ある年齢差であれだけ会話に花を咲かせられるのは一種の才能だと思う。
「それでいうとクロはやっぱりこの一年で変わったなって私的には思う」
「ん、まあ表面的にはそうかもしれないけど」
「ううん、内面も。自分に素直になった」
「素直?」
「でも、まだ変化途中。最後のピースもきっと君だよ……それが正しいかはさておき、ね」
思わず鈴の目を見る。しかしそこにはいつもの愉快そうな色が浮かんでいるだけでその内面を見ることはできない。
「それよりカイくん折角こっちに来たんだし明日は私の家に来てよいっぱいもてなしてあげるから大丈夫お父さんもお母さんも仕事で開けてるはずだしお兄ちゃんも適当にどこか追い払うからさなんなら泊りがけでも可だよ!」
「だから恥じらい」
「えへへ恥ずかしいな初めてはカイくんがいいなってずっと思ってたからすごく緊張する本当はね少し怖いんだけどでもカイくんと一緒ならどんなことでも乗り越えられる気がするのだからえっと明日大丈夫なら来てほしいな」
「そっちの方面じゃなくて!」

■■■

鈴たちも帰りいよいよ寝る段となって俺は1人縁側に腰掛けていた。
この室内とも室内とも言えない微妙な空間が好きだ。ここに座って素足をぶらぶらさせながら麦茶を飲んでいる瞬間が一番懐かしさを感じる。ここも取り潰されてしまうと考えると少し悲しい。
何もしないという幸福。忙しない都会じゃたとえ時間があってもこういう心持ちにはなれない。多分音が違うんだと思う。都会だと窓を開けたら車のエンジン音や人の声、他の住人の物音なんかが聞こえるけれど、ここでは風が草木を撫でるさわさわという音、虫たちの慎ましい鳴き声、そればかりが聞こえ……
がさごそ。
「ん? ……なんだニゴーか」
縁の下からのそりと出てきたのは数年前からこの家に居ついた黒猫だった。「ニゴー」というのはクロがつけた名前だ。黒色2号という意味らしい。合成着色料みたいな響きで可哀想だと思う一方、ユゴーだかビゴーだかフランスあたりの偉人っぽくてちょっとカッコいいような気もする。しかし当の本人はニゴーを撫でることすらできないらしい。
「ふふ、愛いやつめ~」
黙って俺の脚に身体を擦りつけていたそいつを抱きかかえて膝の上に乗せる。飼い猫でもないのにニゴーは安心したように身体を丸めた。
「……『自分に素直になった』、かぁ」
ニゴーの背中を撫でながら夕食時の鈴の言葉を反芻する。素直って何だろう。むしろ周囲の人に素直になれないからこその口撃だと思ったのに。
いつもどこか飾ったところのある鈴があの瞬間だけは珍しく本音を語ったような気がした。それ以上は話したくなさそうだったから聞き返さなかったけど。
自分に素直になった。じゃあ昔のクロは自分に素直じゃなかった? 初めてクロと出会った時のことを思い出す。どこかから父さんが連れてきた女の子。お前今日からお兄ちゃんになるんだぞとランドセルのベルト越しに肩を叩かれた時の混乱は今でも覚えている。
『黒奈です。これからご迷惑をおかけします、兄様』
舌足らずな口調から流れ出た言葉は来年から中学生になる僕よりも大人びていて。でもどこか儚げな印象が拭えなくて。だから僕がもっと頼れるお兄ちゃんにならなきゃいけないって思って。
「……そういえばその延長で男らしくなりたいって思ったんだっけ」
人は環境に適応しようとするらしい。それまで一人っ子だった僕は急に「兄」という包み紙に包まれ、慌ててその中身を用意しようとした。一人称を僕から俺に変えてみたり、好きじゃなかった勉強を頑張ってみたり、親の手伝いなんかしてみたり。「それまでの自分」の横に突如として運び込まれた「兄としての自分」は今もあまり馴染んでいるとは言えないけど、それでもそれなりに整理されてるように思う。昔は天才肌の妹との才能の差に悩むこともあったけど、ケンさんと鈴との関係や生徒会副会長として頑張る詩音の姿を見て、兄妹というものに能力の上下関係を持ち込む必要はないことも知った。今は妹の方が優れていることを認めながら、そのことを素直に喜べるようになった。それでもどこかでまだ兄としての威厳を保とうとする心理が働くのはもう根源的な欲求なのだろう。他の何もかもが負けたとしてもせめて恋人だけはクロより先に作ろうと心に決めた。
「……って思考が脱線した。クロが昔自分に素直だったかって話だったのに」
「誰の話をしているんですか」
「うわっ!?」
向こうの角からクロがぬっと出てきた。
「どうしてこんなところに? 蔵で寝てるはずじゃ……」
「その質問は淑女への配慮が足りていません兄様」
ああ、蔵にはトイレがないから……というか詩音にも昼間デリカシーがないって言われたな。もしかして女の子にモテないのはそのせい?
「それでノンデリの兄様はなぜ夜中に妹の過去を掘り返しながら一人でぶつぶつ呟いていたのですか?」
「い、いや。ただ懐かしくなって」
まさか本人に「君がグレた理由を考えてたから」なんて言えるはずない。
「……ふーん、そうですか」
明らかに納得してない声のクロはそのまま僕の隣に座った。なぜ? トイレは行かなくていいのって聞くのはまた怒られそうだからやめた。
「……」
「……」
気まずい。僕から何か話を振った方がいいのだろうか。
「……兄様。素直さってそんなに大切ですか?」
「え? ……どうだろう、一般論としてはそりゃ大切だけど」
「そう、ですよね……」
ぽつりと呟いてクロがまた黙り込んだ。
そうやって彼女が何かを悩む姿は新鮮だった。またもや鈴の言葉を思い出す。『まだ変化途中』『最後のピースもきっと君』。
クロの手が恐る恐る僕の膝の上に伸びた。しかしニゴーが頭を少し動かしただけですぐ引っ込めてしまった。

「……すみません。少々気になっただけです。それではおやすみなさい」
クロが立ち上がって頭を下げた。僕にとってはいつも通り礼儀正しいその姿は実は他の人たちには最近見せていないらしい。その理由をよくよく思い返してみると、バイトを隠す理由は説明していても尖った態度を取ることについては父がウザいという話しかしていなかったように思う。それが家族だけならまだしも、仲が良かった詩音に「今までのクロには考えられない」と言われるほどであり、鈴に至っては「嫌われてる」とはっきり言っていた。それはなぜか。
クロが元来た方へと歩いていく。駄目だ、考える時間がない。でも多分今じゃないといけない。この内と外の境界が曖昧なこの場所が残っている今じゃないと、クロが自分のことを打ち明けてくれて、「素直さ」だなんてナイーブな問いを零すほどに包装が緩んでいる今じゃないと、きっと彼女の心の内に仕舞われたものを知ることはできない。
「クロっ!!」
ニゴーが慌てて軒下に駆け込む。僕はクロの手を掴んでいた。
「ど、どうしたんですか? そんな慌てた様子で……」
「さっきは一般論に逃げちゃったけど、素直さって多分色々あると思うんだ」
頭の中が纏まってないまま喋りだす。心が思うままに言葉を紡ぐ。
「それはきっと外向きか内向きかの違いがあって、周りの人に変に反発しないことも素直さだし、自分の反発したいって気持ちに従うこともまた素直さなんだと思う」
今自分はとんでもなくクサいことを言ってるんじゃないかという羞恥がある。てんで的外れなんじゃないかという恐怖もある。けどその包み隠さない感情こそが今は大事なんじゃないかって気がする。
「だから僕はどんな君でも受け入れる。だって僕は黒奈の兄だから」
夜風が吹く。オニキスのような瞳が震えている。
閉じられる。
開かれる。
それはいつもより目尻が下がっていて。
「はぁ、一人称が僕に戻ってますよ。懐かしいですね」
「え? 嘘、僕そんな……あ」
「そんなところも好きですが。では今度こそおやすみなさい、灰斗さん」
「あ、うん。おやす……み?」
気のせいか、今なにか違和感が……

■■■

『……でねでねー、合格祝いってことでクロと鈴と3人でディブニー行ってたんだけどもう本当人多くて』
「そりゃ今の時期は……っていうかこっち来てたんだ。俺にも言ってくれたら良かったのに」
『あ、そだね。でもそっちに3人は泊まれないでしょ? 前泊まったときもギリ2人行けるかどうかって感じだったし』
「そりゃそうだ。ただの学生が都会で広い部屋を借りるなんてお金がいくらあっても足りないよ。普通に会いたかっただけ」
『ええっ!? それってどういう……あ、ううん、なんでもない! で、でもでもっ、一人だけそっちに泊めさせてもらってホテル代を浮かせるって話もあったんだ。喧嘩になって結局なくなっちゃったけど』
「まあ折角なら田舎にはないような高級ホテルにも泊まってみたいよね」
『あれ、そんな理由だったかな……?』
「まあ何にしてもクロが二人と仲直りしたみたいでよかった」
『うん。家が新しくなってから久々にお泊り会とかもしたんだ。あ、そうそう。新しくなってホントに凄くなったんだよ。トイレもぼっとんじゃなくて水洗だし! しかもお尻にジャーってなるやつのあるの! デパートとか駅とかみたいですごくない!?』
「あ、うん。そうだね」
『我が盟友も暇になったら帰還してね。それじゃ私今から映画観に行ってくるから。今度一緒行こうねー』
「オッケー。それじゃまた」

電話が切れる。向こうは皆元気そうで良かった。クロも無事合格したみたいだし、皆とも仲直りしたみたいだし。なにやら喧嘩したって言ってたけど、以前のクロなら喧嘩にすらならなかった訳で。
詩音の言う通り春休み中に一回は顔を見せに行きたいな。なんやかんやバイトを詰めすぎて掃除して以来一回も戻れていない。
「クロともあんまり話せてないし。嫌われちゃったのかなぁ」
ベッドの上にごろんと寝転がる。あの時は兄として結構いい感じに接しられたと思っていたけど、それから電話とかLANEとかで連絡を取ろうとしても「受験勉強で忙しい」と毎回そっけなく切られてしまった。それどころか妹はどうやら緘口令を敷いているらしく、父さんやケンさん経由でクロの近況を聞くことも出来なかった。なので恥ずかしながらお祝いメッセージどころかクロがどこの大学に合格したのかすら分かってない状況だ。だが今みたいに詩音からポロっと零れた話から察するに何か不幸に見舞われたけどそれを兄には隠したいとかいう感じではなさそうだ。つまり単に嫌われてるだけの可能性が高い……とこの時は思っていた。

「まあ今度顔を合わせた時に外食でも奢って……」
ピンポーン。
「……あれ、なにか注文してたっけ?」
それか宗教勧誘か、それとも押し売りか。都会暮らしはこういうところが嫌だな、なんてことをぼやく俺は扉の奥にいる人物がまさか彼女だとは思いもしなかった。
ピンポーン。
「すみませーん、今行きまーす」
ピンポーン…………ガチャガチャ、カチッ。
「……え?」
パジャマの上からジャケットを羽織っただけの俺は、勝手に開いていく扉を呆然と見つめることしかできない。
「お久しぶりです」
「く、クロ……? どうして……」
「鍵は緊急時のを父さんに借りてきました」
「そうじゃなくて! なんでここに……」
「それは」
前見たときよりも一段と垢ぬけた出で立ちのクロは少しはにかみながら、旅の手荷物というには大きすぎるキャリーケースの持ち手を俺に握らせた。その瞬間触れた手の温もりに何故か俺の心臓は跳ねた。
「来年から同じ大学に通いますから」
「え?」
「これからよろしくお願いします、灰斗さん」
その微笑みはそれまで妹が兄に向けていた親愛の笑みとは少し違っていて、その瞬間今まで薄っすらと感じていた違和感の全てがひとつに繋がった。

つまり、妹だと思っていた子は悪魔的な素直さを身に着けてきたらしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?