『ライアーダンサー』MV分析
音楽的な分析はしません(できない)
作品情報
✌😎✌
①フォニイとの比較~仮面とサングラス~
ようつべのコメ欄でフォニイとの関連性を指摘するものがあった。アンサーソングかどうかはさておきこの2つを比べるのは面白そうだと思ったので、サングラス😎とお面🦊の性質の違いを見ていくところから分析を始めたい。
自分を騙すか周りを騙すか
ペルソナの語源が仮面であるように、仮面による嘘は周囲への適応を目的として行われる。しかしサングラスの本来の目的は遮光、つまり自らの視界に影響を与えるために用いられる。つまり効果の対象が仮面とサングラスではそれぞれ周囲か自分かで分かれている。
不都合への対処法として両曲とも嘘を用いているが、『フォニイ』では周囲に、『ライアーダンサー』は自らに嘘をついているという相違点がある。そこがモチーフにくっきり表れているのが面白い。
涙の秘匿性
仮面はサングラスよりも顔を隠せる面積が多く、たとえ涙が出ても号泣でもない限り見た目では気づかれない(目の部分にがっつり穴空いてるタイプは除く)。一方でサングラスは頬を伝う程度の涙で外部から泣いていると判断されてしまう。これは前述のサングラスは本来自分を騙すために使っているという部分にも繋がるだろう。
また非常に分かりづらいが冒頭ではサングラスの裏で涙を湛えているのが確認できる。このようにサングラスは薄いのも特徴的だ。
対して『フォニイ』では最も表面的な前髪と最も内面的な心の内側が濡れたという歌詞から逆説的にその間(=外面=仮面)は濡れていない、つまり実際に泣いてはいないことが分かる。そして両側が濡れているにも関わらず濡れていないことから障壁としての仮面の強固さが窺える。
歌詞では「泣いた」というフレーズもあり重苦しさのある『フォニイ』のMVでは涙は一切描かれず、終始明るさを纏っている(ようにみえる)『ライアーダンサー』のMVでは涙が流れているという違いも面白い。
妖気か陽気か(激寒)
狐のお面といえば稲荷神であり、日本では古くから人間に有益な狐を霊狐と呼び信仰の対象にしていた。そして人間に害を為す狐、特に何かに化けたり幻を見せたりするものを妖狐と呼んだ。妖狐は美しい女性に化けて男を騙すことが多く、妲己や玉藻前などは国を傾けるほどの影響力を持っていた。つまり狐は他者を騙すという性質を持ち、特に恋愛との親和性が高いといえるだろう。「愛」「色」「さようなら」など男女関係を意識させる単語が多い『フォニイ』とは相性がいい。ちなみに幕府公認の遊郭街だった吉原では遊女たちのことを「狐」と呼んでいたり、大晦日には「狐舞」という行事が行われていたりしたらしい。
逆にサングラスと言えばやたらカッコいいかやたら楽しそうな印象がある(偏見)。また重量の点からも仮面より激しい踊りとの親和性が高い。また「サングラスは明るい場所でつけるもの」という前提から逆説的に場が明るいと認識させることもできる。
またサングラスは仮面と比べて着脱しやすいため嘘の無理した明るさとそれ以外の時のギャップを表すにも適しているだろう。『ライアーダンサー』ではサングラスをかけてこちらを向いている間は常に明るく振る舞っているものの、それ以外では疲れた顔をしているカットも多い。
②ジェンダーと興味について
ワンピとチェンソーマン
『ONE PIECE』は王道の超人気漫画であり、チェンソーマンは逆に邪道の超人気漫画である。この方向性の違う2つの人気作を「見たことない」という。漫画が娯楽全般の中で占める割合は特に学生においてはかなり大きいと考えられることから、この語り手(≠作者)は流行に疎いことが分かる。
しかし後にシャツとネクタイに煙草(ココシガ)といういかにもチェンソーマンらしいカットが登場することから、興味はさほどなくても実際に触れてみようとはしているらしい。
ジェンダーに興味を持てない?
1番冒頭ではメロン胸だったり女子制服だったりと女性的な印象を喚起させるアイテムが多い一方、2番ではマッチョ影や煙草+ネクタイなど(比較的)男性らしいアイテムが多い。また、いずれも嘘と共に描かれており、それらに固執する様子も見られない。
『フォニイ』で登場する女性的な一人称や語尾、あるいは愛や色など男女関係などを感じさせる単語がほぼ描かれない『ライアーダンサー』は白T半パンという服装からも無性的、というより第二次性徴前の子供っぽさを感じさせる。「子供のままの自分」は作者の他の楽曲にも共通して見られるテーマであることからも、大人らしさと密接に関わるジェンダーという切り口は本楽曲を分析する上で有効だろう。
②面接について
足跡が影になっている
「偏向報道まがいの歩み」を肯定する歌詞が流れるなか、その歩みが影となって彼女の後ろに長く尾を引いている。ここには歌詞とは正反対に彼女の後ろめたさが感じられる。
口の動き
細かい部分だが、面接の場面で歌詞通りに口が動いている。これが彼女の人生で実際にあった面接を忠実に回想しているのであれば当然こうはならないだろう。直前に「良さげなとこだけツギハギで繋げて」とあることを考えると、ここは実際の面接の場面を切り貼りして彼女があたかも歌っているかのように(彼女自身で)コラージュしたのではないかとも受け取れる。
この場面と直前の歌詞「今幸せか 幸せじゃないかなんてさ」から会社員としての生活が面白くないことが分かる。その入り口となった面接も勿論面白いという文脈で語られるイベントではないはずだが、そんな人生も加工することで面白おかしいMVに仕立て上げることができる。この作品を語り手(=テト)が作ったとするのであればここにも「偏向報道」を読み取ることが可能だろう。
③ダンスについて
常に正面を向いている
↑のダンスで特に顕著だが、ダンス中は常に顔が正面を向いている。これは手抜きというよりもむしろダンス中も常に他者に表情を見せたいという意図によるものだろう。
この作品においてサングラスはダンスと密接に結びつけられており、またダンスは幸せの象徴となっている。サングラスをかければ「晴れのような気持ち」であり、踊っている間は「未来があるのさ」と思うことができる。逆に言うとサングラスをかけダンスを踊っている間は一片の疑いもなく幸せでなければその対応関係が崩れてしまう。もしも後ろを向いてしまったらその瞬間はどんな表情をしているかは未確定であり、他者が疑念を抱く余地を生んでしまう。しかし常に正面を向き笑顔を見せることで誰に対しても自分が「幸せ」であることを証明できるのだ。
クラスメイトとの会話や面接など、この作品は他者の視線を強く意識している様子が描かれる。それを無視するはずのダンスが結局は他者の視線への意識から逃れられていないというのが明るいはずのこの作品に暗さを感じる理由のひとつだろう。
疲れて踊るのをやめた
この作品はあれだけ「踊れ」と言っていたにもかかわらず最後には疲れてダンスを止めてしまう。ダンス=嘘であることから、この語り手は嘘をつくことすら疲れてしまったのだと捉えられる。
ダンスを止めてしまうそれまでの嘘が効力をなくし、「そうやって生きてもいいよ」「踊ったもん勝ち」「ああ嘘で良かった」などの自分を肯定するような言葉が全て反転して突き刺さることになる。
まとめ
この曲は「嘘をつく自分の肯定」という形をとっているため、その肯定にすら嘘が混じるのではないかという疑念が拭えず、真偽が宙づりになってしまう不安定さが存在する。それは重音テトという(偽物の歌姫である)ボカロですらない偽りの存在、偽りの声に仮託したことでより強い不安を伴って我々の前に現れる。
ただこの作品に救いを見いだすとすれば、それは最後に踊り疲れたテトが背を向けて寝転んだ場面だろう。そのやる気のない姿は今まで散々ついてきた自分を肯定する嘘の否定ではあるが、今までのように自分を取り繕うような色は見られない。そして冒頭の丸まった背中とは異なりリラックスしてるようにさえ思えるその背中には我々視聴者という他者の視線を気にする様子は一切ない。もしかしたらそれもポーズかもしれない。こちらからはテトの表情は見えないので真偽は不明だ。
しかし最後の最後にはテトが消えて画面が紫一色になる。彼女はついに他者の視線から完全に逃げおおせたのだ。それは根本的な解決にはならないが、本当の自分を見つめるためには必要不可欠な時間だろう。