「正義」を「制御」しよう

法曹と正義

10年ほど前でしょうか。マイケルサンデルの「これから正義の話をしよう」という書物が話題になりました。
「正義」というと、多くの人は前向きなイメージを持っていると思います。
また、弁護士法は、1条で「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」と規定しています。
実は、我が国の法令で「社会正義」という文言を用いているのはこの条文ただひとつです。
そうすると、弁護士というのは、我が国の法令上最も正義が重んじられる職業であるというのが法体系の定めるところだと言っても過言ではないでしょう。
また、裁判所法や検察庁法に正義についての規定はありませんが、裁判官や検察官も正義を心に持って仕事をすべきことに異論はないでしょう。裁判官の場合、憲法規定の「良心」というのが近いかもしれません。
まとめると、法曹三者は、正義の実現が職責であるということになります。

色んな正義

多くの法曹は、司法試験を受験したとき、何らかの正義を胸に試験に挑み、そして、法曹になってからもそれを胸に仕事をしているでしょう。
たとえば、
 ・恵まれない立場の人を救いたい
 ・権力の横暴に立ち向かう
 ・悪を逃さない
 ・被害者とともに泣く
といったものでしょうか。
これらは間違いなく正しいものです。
法曹でなくとも、総論でこれらに反対する人はいないでしょう。

正義は行き過ぎてしまう

たとえばテロリストを考えてみると、彼らも多くの場合、正義に従って行動しています。
テロが客観的に正義ではないことは当たり前ですが、テロを行う人も、元々は普通の正義を原動力にしていることも多く、それが行き過ぎているのです。
テロリストのような単純な例だと分かりやすいですが、通常はそんなに単純ではありません。
ブラック企業で虐げられていると主張する労働者から相談を受けた新人弁護士がいるとして、正義感に突き動かされて企業を相手取って戦う場面を想像してみましょう。ブラック企業が悪いのは言うまでもありませんが、うまく改善して両者うまくやっていく余地もあったのに、やりすぎると対立を決定的にしてしまうかもしれません。
たとえば、全く同情の余地がなさそうな凶悪犯罪の被疑者被告人を前にした検察官がいるとします。正義感に突き動かされて少し厳し目の取調べや行き過ぎた求刑をしてしまうことがあるかもしれません。しかし、それは正義でしょうか?
そう、正義に基づいて行動すると、やりすぎになってしまうのです。
正義に基づいた行動は、気持ちが良いからです。

そもそも正義は相対的である

また、そもそも正義は一義的なものではなく、相対的なものです。
労働者の例でも、経営者の側には、従業員に無理してもらうことが、会社やその雇用を守ることにつながるという別な正義があるかもしれません。
ポジショントークというだけのことかもしれませんが、それぞれのポジションに正義があります。
かつて小泉純一郎という総理大臣がいました。
彼は、郵政民営化を内閣の最重要課題に据え、それに向かってやや強引な手法を採りました。彼にとって、郵政民営化は、紛いなき正義だったと思います。
そんな中、郵政官僚たちは必死の抵抗を行い、自民党の族議員や野党に必死の根回しをしていました。そんな郵政官僚の姿について、小泉さんは「それが彼の正義なのだろう。民営化が決まるまでは好きにさせておけば良い。」といった趣旨のことを言ったとされます。正確な言い回しは忘れましたし、真偽も定かではありませんが、これが事実であれば、小泉さんは正義の相対性を理解していたのだと思います。
(その後の郵政民営化の行方やその成否はここで論じることではありません)

正義の怖さ

やりすぎてしまうことと、相対性について述べました。
このように、正義を原動力にした行動は、ついやりすぎたり、他の立場からの正義を看過してしまうリスクがあります。
私が司法修習生の頃、ある教官が、「正義は暴走します。」とおっしゃいました。その言葉がいつも心にあり、正義だけを原動力にした行動は、極めて危険だと考えています。
正義を胸に仕事をするのは素晴らしいことですが、正義を原動力に行動することは、裏腹の危険を伴うものであるということを心する必要があると考えています。
冒頭のとおり、法曹は、正義の実現が職責であるからこそ、正義の怖さを直視し、絶えず自分の正義を自己批判しながら仕事をする必要があるように思います。
ダジャレみたいですが、自分の正義を制御(「せいぎ」を「せいぎ」ょ)することを常に心がける必要があるのではないでしょうか。

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