老いから考える人生の選択について〜親の老いを目の当たりにして考えたこと〜
先日、実家に帰ったら
父親にいきなり
「お母さん、これから病院に呼び出されて行かないと行けないからお留守番お願い」
と言われ、行った早々お留守番をしていた。
母は気づいたら後期高齢者になっていた。
昔は1人で旅したり、美味しいもの食べに行ったり、太極拳したり、英会話を習ったりしていた。
コロナで不要な外出はするな、で全く外に出なくなった。 そこから文字通り、坂道を転げ落ちるかのように老いが進んだ。
人一倍好奇心旺盛で、周りの同級生より、10年以上遅く結婚して、出産子育て経験をして、ゆっくり老後を楽しんでた矢先に色々重なりコロナが来て、好奇心も行動力も全てがなくなった。
外に出なくなったので、人と話すことがなくなり、物忘れがどんどんひどくなり、遂には病院の先生との会話も父がいないと成立することが出来なくなった。
この3年、母には辛いことが多かったように思う。
娘(私)は心地よい空間からの脱出を試み、家を出た途端に結婚し、慣れ親しんだ下総の国を去ってしまった。
そして、今まで我慢していた父に対する不満が爆発し、子どもたちに感情のままに言うようになってきた。そして、物忘れが酷くなるにつれ、感情が出なくなり、淡々と猫と日々穏やかに暮らしている。
穏やかになったと思ったら、体調が安定しなくなった。冒頭の出来事は、11月に入って急に寒くなったら、血圧が上がったせいなのか、酷い貧血になり採血したら、とんでもなく酷い値を叩き出し呼び出されたようだ。
食が細くなり、食べるものも健康的な食生活からだんだんかけ離れていった。
家事は最低限こなすものの、料理はほとんどしなくなったようだ。
そんな母を見てると、親と過ごす時間はもうカウントダウンされていて、残りのこの時間を大切にしたいな、と心の底から思ったのだ。
そして、母の老いを意識した時に2つのことを思った。
1、私の母はアラフォーで結婚して、40手前で出産してから子育てをしている。私も全く同じ年代で結婚してるが、コウノトリは来る気配はないので、このまま子どもがいない生活だ。
仮に奇跡的に子を授かって産めたとして、
その子が成人するまで母は健在ではないとなると、なんだか切なく、何とも言えない気持ちになる。
幸いにして私は両祖父母を知っていて、両方から可愛がられて、本当に良くしてもらったし、色々なことを学んだ。その機会を母に与えられそうにないことに申し訳ない気持ちになる。
2、とは言っても、私は私の人生であるので親とは同じ道を歩むとは限らない。しかしながら、親の老いを見て、私は親に「私は後悔しない選択をして今すごく充実している」と言える生き方ができているのか?私は今終わりが来ても、「楽しい人生だった」と言えるのか?
単純なことかもしれないが、そう言うことを意識するようになった。
人は老いる。それは変えられない。
そして、時間も限られてる。それも変えられない。
何かをやるときに、できるときは限られている。
正直、二十代という若いときの選択は私の中では後悔しかないものになっている。
戻らない時間のことを色々言っても仕方ないし、そんなのに縛れている時間もない
これからは、自分の声に正直に、老いたときに後悔をしない生き方をしたい。
親は親、私は私。
さあ、ここから始めよう。