「滅殺開墾ビーム」が素晴らしい理由
映画「プロメア」を見ました。
堺雅人さん(の演じるキャラクター)が滅殺開墾ビームなどという面白パワーワードを口走る様子はそれはもう大変趣深いものでありました。
映画を見た人のほとんどが面白パワーワードとして認識し、その結果として大いにバズっていますね。
しかし僕は、この言葉を面白いと思えること自体が面白いことなのではないかと感じました。
ていうか滅殺って何?
滅殺開墾ビームは、言うまでもなく3つの単語から成り立ちます。
滅殺と開墾とビームです。
それぞれの意味を見てみます。
開墾
山野を切り開いて新しく田畑にすること
(大辞林)
ビーム
1. 建造物の梁
2. 光や電子の流れの束、または電波の束。光線。
(大辞林)
滅殺
掲載なし
(大辞林)
掲載なし??
まさかと思ってさらに調べてみました。
その結果…
広辞苑第七版・・・・・・掲載なし
大辞泉・・・・・・・・・掲載なし
岩波国語辞典第七版・・・掲載なし
大辞林第三版・・・・・・掲載なし
日本国語大辞典第二版・・掲載なし
全滅です。
そうなんです。
滅殺という言葉、辞書に載っていないんですね。
確かに、学校で習うような言葉ではありません。
日常的に使う言葉でもありません。
滅殺開墾ビーム以外では、どこかで出会ったことがあるような気もしますが、それも定かではありません。
(ぐぐるとゲーム関連で時々登場するようですね。)
にも関わらず、滅殺という言葉を見ればすぐに意味がわかります。
滅ぼし殺す。
たった2文字で、見る人聞く人全員に圧倒的な暴力性を感じさせる強烈な語として成り立っています。
原作・脚本の中島かずき氏はTwitterで以下のようにおっしゃっています。
必殺は辞書に載っています。
必殺
相手を必ず殺すこと。また、その意気込み。
(大辞林)
ここにあるように必殺は「相手を」とあります。
必殺という言葉は、どことなく、1対1の戦いを連想するように思います。
それに比べ滅殺は、より多くの敵を討ち滅ぼし、その上確実に息の根を止めるという必殺のイメージが継承され強化されているように感じますね。
ここで必殺という一般的な言葉ではなく、辞書にもない滅殺という言葉を選び、見る人により強烈で凶悪で圧倒的な印象を与えることに成功したことこそ、中島氏の人並み外れた言語感覚の賜物なのでしょう。
絶対に隣り合わない3語
さて、滅殺が辞書に載っていないことにまず驚きましたが、このことは滅殺開墾ビームのすごさのほんの序章に過ぎません。
滅殺開墾ビームのすごさはその3語の組み合わせにある、と思うのです。
滅殺と開墾とビーム、この3語が並ぶことは本来ありえなかったことでしょう。
まず、滅殺と開墾。
滅殺の意味は辞書に載っていないので、シンプルに滅ぼし殺すこととします。
開墾は上述の通り山野を切り開いて新しく田畑にすることです。
これは全く反対の意味と言っても差し支えがないでしょう。
高度な凶悪的破壊行為と、原初的な平和的生産行為。
この2語を並べてひとつの言葉に出来るなど、誰が想像できたでしょう…。
さらにそこにビームがくっつきます。
滅殺も開墾も、普通に考えて大変です。
ものすごい労力が必要です。
何かを生み出すことは本当に苦難の連続ですが、一度生み出されたものをすべて滅ぼすということも当然一筋縄ではいきません。
それをたった一語、ビームで解決してしまったのです。
本来であれば大変な労力と膨大な時間を要する滅殺と開墾を、一筋のビームでシュパっと一瞬で終わらせてしまう。
ここにも全く反対の現象を含んでいるのです。
このように2つの矛盾を同居させることにより、この技が非現実的なまでに絶大なパワーを持っているということを端的に示しているのです。
繰り返しになりますが、これをやってのける中島氏の言語感覚恐るべしと言う他ありません。
使い捨て
これほど破壊的なエネルギーを持つ滅殺開墾ビームですが、劇中では一度しか使われません。
これは当然といえば当然かもしれません。
このような膨大なエネルギーのある言葉を何度も使うとそれはもう2度めでお腹いっぱいになるからです。
言葉の持つエネルギーをしっかりとコントロールして、しつこくならず、かつ一発で確実に効果的に印象に残す。
ライティングのお手本ですね。
初めて聞いてピンとくる感覚
ここまでは、滅殺開墾ビームという言葉が成り立ちや使い方がいかに素晴らしいものであったか、という視点で書いてきました。
ここからは我々になぜか備わっている、滅殺開墾ビームめっちゃ面白いやん!と思える感覚について書きたいと思います。
滅殺開墾ビームがバズっている、ということは、この言葉に面白さを感じた人が多くいるということです。
その人達は、上述したような言葉の組み合わせの妙を瞬時に感じ取り、そこに感心して面白さを感じているのだろうと推測できます。
この記事のようにわざわざ言語化することはなくとも、受け取った人たちがみんな同じように、矛盾と調和が同居する不思議な言葉の組み合わせを読み取っているのです。
これは非常に興味深いことです。
面白さは意外性から生まれます。
その発想はなかった!と感じるところに面白さが発生します。
ということは逆に言うと、意外じゃない言葉の使い方、つまり言葉の本来の意味を知っていなければならない、ということです。
常識を知らずして非常識を知ることはできないのです。
これはつまり、滅殺開墾ビームに面白さを感じる人は、滅殺と開墾とビームの意味を知っているということです。
なぜ?
滅殺は辞書に載っていないのに。
開墾なんてしたことないのに。
ビームは英語なのに。
滅殺の意味がわかるためには、滅と殺の意味がわかることに加え、それを熟語として許容することが必要です。
また、身の回りに存在しない開墾や、英語であるビームを知識として持っていて、その語句が目の前に現れた瞬間に意味を正確に把握出来る水準で身につけていることも必要になります。
これらすべての要件を満たさなければ、滅殺開墾ビームはただの意味不明な言葉なのです。
そして我々は幸運なことにその要件を満たしていたのです。
なぜこれを身に着けているのかは、もちろん教育のおかげでもあり、それぞれの置かれている環境や興味の方向など様々な要因があると思います。
しかし滅殺開墾ビームというひとつの言葉を中心に、その不思議な能力が一斉に発揮されたのです。
全く初めて聞いた言葉の意味を瞬時に理解し解釈し面白いと判断する。
このような能力を多くの人々が共有しているということは非常に面白いなと感じているのです。
出し手と受け手の呼吸が合った
結局のところ、滅殺開墾ビームの面白さは、中島氏の圧倒的な言語感覚によるものだけではなく、受け手である我々にも中島氏ほどではないにせよそれを理解するだけの言語感覚が備わっていたことによるものだったのです。
そのどちらが欠けていてもこの盛り上がりは生まれていませんでした。
イニエスタのスルーパスを受けたメッシがゴールを奪うように、言葉の生みの親である中島氏と受け手である我々視聴者の呼吸が合った結果なのです。
まさに奇跡のような瞬間だったわけです。
滅殺開墾ビーム、素晴らしいですね。
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