今スリランカでおもうこと。
友人たちがスリランカにいることを羨ましがるけれど、実は今のところ私にとっては辛いことが多い。
急に来ることになったので、明日の行き先、寝場所も決まっていなくて日々その予定組に追われるのもあるし、大荷物でローカルバスを乗り継いでの日々の移動も疲れる。やたらと虫が多いし、Wi-Fiが弱すぎて仕事ができないのもストレスでしかない。
でも理由はそこにはないことに気づいた。
スリランカの人はみんな優しいと口々にいうけれど、私は完全には今のところ同意していない。
なぜなら、私が接した優しい人はみんなお金を通して優しいから。
最初とても笑顔で親切にしてくれても、ぼったくろうとしているだけだったり、お金をただ要求してきたり、チップが少ないと途端に豹変したりする。そんなことが続いたせいか、笑顔も親切も信用できなくなった。
この笑顔の先には金銭を要求されるんだろうと思ってしまう。
ホテルの人、バスやトゥクトゥクの運転手、飲食店の店員、私が接した人たちがみなお金を通じて接する人ばかりだったのもあるのかもしれない。
日本語がペラペラな宿のオーナーにこうも言われた。
どこから来たのって聞かれたら日本人って答えたらだめ。
中国人って答えなさい。
そうしたらぼったくろうとはしてこないと。
実際、無償ではどういう風に接する人たちなのか知らないし、本心や本音が見えないから私は同意できないのかなと。
そして自分にも置き換えてみた。旅の途中ひっかかることがあるとまず自分に置き換えて考えるようにしてきた。そうしたら私にとって大事な人は昔からの友人家族だけでなく、それこそヨガや飲食店での勤務を通して出会った人も多いことに気づいた。言い方が間違っているかもしれないけれど、その人たちはみな私とお金を通して出会ったのがきっかけ。
お金を払ってヨガを受けに来てくれる人たち。食べたり飲んだりしてお金を払ってくれる人たち。
となると、またいろいろと考えしまった。
私は彼らや彼女たちをとおしてお金を期待しての行動をとっていなかっただろうか。
100%否定できない自分がいて悲しくなった。
同時にお金という大きくて難しいテーマについて、語彙力のない自分が手をだしてしまったことを今少し後悔している笑
トゥクトゥクのドライバーにこう言われたのを思い出した。
お金なんてただの紙切れだから持っていてもしかたない。
どんどん使えばいい。
だとしたらそんなに欲しがることも説明してほしい。
お金について書いている限り、私もまだまだお金に対しての執着があって、お金にとらわれているのだろう。これから解放されたら、すべてのスリランカの人たちの親切をまっさらな心で信用できるようになるのだろうか。
先日まで、目があってもにこりともしないトルコの人たちに対して寂しく感じていたけれど
今はにこにこしてくるスリランカの人たちに対して警戒心しかない。
目の前の人は自分の写し鏡ともいう。
人のふりみて我がふりをかえりみたスリランカ5日目の朝。
スリランカを去る日にはどんな自分がいるだろう。