【#dbn二次創作大会】禁酒失敗そのX【即興ファンタジー(本編)】その⑥
「まだ終わってないけど、とりあえず仕事終わりの一杯ってことで!」
どうも、禁酒70日目の私です。
長かったdbnさんの2次創作、ファンタジー連載の最終話です。作品自体は長いようで短い。時系列で言えば24時間に満たない出来事なんですね。
では、どうぞ!
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(前回までのあらすじ:
心に傷を負い、辺境の砦へと赴任してきて毎日酒浸りのドバンはある日、正体不明の怪異と交戦する。彼奴らこそ、州都からの特使たちが調査していた領民行方不明事件の元凶だった。窮地に陥る砦。破壊すると毒ある胞子を撒き散らす怪物に苦戦する一行は籠城し、狼煙を上げて救援を待つことにする。自ら狼煙を点けに向かったドバンはしかし、完全に封鎖したはずの砦内に怪物が入り込んでいるのを目にする……)
リカー・ワールド・ストーリーズ
ローカルエピソード その3
ミッズワーリー砦の戦い
(Local episode 3: The battle of fort Midsworly)
ミッズワーリー砦、黒い風の月 15日、国歴225年
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「チイィーッ、どこから入ってきよったンじゃ!この#$%&野郎めが!」
必要以上の大声でジャックが毒づく。同じく大声で返すのは彼の双子の弟ダニエルである。
「カーッッッ、どこからわいて出よったンじゃ!この#$%&野郎めが!」
「「ブチこむぞ!」」
揃って言うが早いか、西壁を守っていた双子の兄弟は息の合った動きで巨大な弩砲を射席ごと砦の中に向け、間髪入れずに怪物めがけて打ち込んだ。放ったのは矢ではなく、大きな鉄の銛である。狙い過たず命中した銛はその勢いと重量とで怪物の平衡を大きく崩し、地に倒れ伏した怪物は立ち上がることができずに緩慢な動作でもがき始めた。同じ顔の兄弟は上機嫌で雄叫びを上げた。
だが、彼らは忘れていた。指揮官が『殲滅』と叫んだのを。反対側の東壁の上から二人の兵士が何か叫んでいる。叫びながらこちらの足元を指差しているが、西壁の上の二人は気がつかない。
「ヌシらの下にもおるぞ!おおい、おおい!ダメか、聞こえんか!」
焦る髭面のデュワーズに、禿頭から汗を流し、装填する銛を運んで息を切らしたシーバスが応ずる。
「そうさの、もともと耳の遠い兄弟じゃて、この遠間ではわからんじゃろうの。そんなことより、ほれ、手伝うてくれんか。どの道弩砲では真下に射撃はできんわい」
同じことはあちこちで起こっていた。侵入を見逃すはずのない巨体の怪異は、如何にしてか音もなく砦の中に侵入し、外で待機している同類に比べて大きさでは劣るものの、着実にその数を増やしているのだった。
兵士たちは弩砲で、民たちは協力しておのが手で銛を放ち、怪物の動きを止めている。斃すと胞子を撒き散らす怪物に対し、動きを止めるだけでも有効な手段になるとハイボルが説き、事前に用意させたのだ。
ほとんどの人員が壁の上から応戦している中、ただ一人黙々と地表の井戸のそばで何かの作業をしていた特務魔道士は、仰天する光景を目にして、思わず作業の手を止めた。そして金切り声を上げた。
「南門!」
そちらに顔を向ける余裕がある者だけがそちらを向き、その全員が驚愕した。南門とは、すなわち主門である。南門は小口と呼ばれる空間を隔てて砦内に通じているのだが、その小口に通じる門に小型の怪物が群がっている。これまでに見た緩慢な動作が嘘のような素早い動きを見せるそれは、あっという間に小口に通じる門の閂を外してしまった。菌糸類の怪異が繁殖以外の目的を持った行動を、しかもこれほど素早く取り得るなど、流石のアイレイも聞いたことが無い。そのままの勢いで、小型の怪物は南門に殺到した。何をするつもりなのかは火を見るより明らかだ。
「止めろ!そいつらの足を止めろ!門に近づかせるな!」
ハイボルが俊足を飛ばしながら叫ぶ。手にはレイモンサウアー家秘蔵の宝剣、キンミャーが握られている。直接斬り伏せるつもりなのだ。突如として小口に現れた怪物に、南壁の守備を任されていたローゼスとウォーカーは完全に不意を突かれ、あわてて郭を回り込んで投擲槍を次々と投げつけたが、的が小さい上にすばしっこいと来てはなかなか当たらない。追いかけてくるハイボルが紅蓮の炎を上げて怪物を屠ってゆくのが早いか、怪物が門に取りつくのが早いか。
結果は残酷だった。キンミャーの刃が届く前に、最後の怪物が主門の閂を外してしまったのだ。
つい数刻前には主レイモンサウアーの初陣を飾った主門から、敵が押し寄せてくる。ハイボルは一瞬顔を歪め、押し合いへし合いしながら侵入しようとする怪物を尻目に、撤退命令を出した。しかし、いざという時の最後の防塁とする予定であった狼煙台のある塔への道は、別の箇所から湧いて出た怪物や、おそらく既に破られた他の門から侵入してきた怪物ですでに埋め尽くされつつある。かくなる上は、小口に敵をなんとか引きつけ、魔道士が考案した策に期待するしかない。そうして、救援を待つ。しかし──
ハイボルは険しい顔で塔を見上げた。未だ救援を求める炎が上がる気配は無い。
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……嘘。
松明を突っ込んだ火口は燻りさえしない。木屑が腐ったような臭いが微かにし、ドバンは火口に手を突っ込み、うず高く積まれた薪に触ってみた。
湿っている。
雨ざらしだったのだ。
いったいいつからこのままだったのだろう。ドバンの脳裏に、巡回兵の確認事項に適当に署名していた自分の姿が浮かんだ。自身が巡回していた時の、適当な目視確認だけしていた姿が。何かと理由をつけては訓練を先延ばしにしてきた自分の姿が。
全て自分たちに跳ね返ってきてしまった。過去の怠惰のツケを、今、助けを呼ぶこともできずに全滅するという結果によって支払わねばならなくなったのだ。
全身から力が抜けてゆく。ドバンは呆然として、ゆっくり振り向いた。塔の下で叫び声がしている。皆が戦っている。絶望しか待ち受けていない夜を、必死に戦い抜こうとしている。兵士たちの悪態をつく声がする。志願した民たちの悲壮な叫びが響く。ハイボルは何か大声で指示を出しているようだ。アイレイは……
そうだ、アイレイは何をしているのだろう。ドバンは顔色をさらに青くした。さっき、井戸をのぞき込んで何か言っていた。まだあそこにいるとしたら一大事だ。すぐに逃げてもらわないと。
ドバンは狼煙台から顔を出し、下を見た。風を切る音が聞こえ、おかっぱの髪が頬を叩く。兵士と民が最後の抵抗を試みる声が切れ切れに聞こえる。
ドバンの目に篝火の僅かな明かりとは違う、青く明るく輝く何かの光が見えた。ドバンの瞳に映るそれは、井戸のそばに設置された、魔的な光で形作られた何かの機械の輪郭──何らかの力で動く歯車であり、鎖状に繋がれた桶の連続であり、全方位に渡された樋──であった。驚くべきことに、その奇妙な機械は連続した桶を使って井戸の水を汲み出し、いくつもの樋を使って汲み出した水を流し、そこかしこを水浸しにしている。一瞬で井戸が涸れてしまうのではないかと思いたくなるほどの物凄い勢いだ。そしてそこに、アイレイがいた。やはりまだ逃げていなかったのだ。何をしているのかさっぱりわからないが、敵が迫っていることを知らせなければ。
「アイレイ!逃げて!敵が、来てる!そこまで、すぐ!」
この緊急時に、アイレイは腹立たしくなるくらいの優雅な動きで声のした方を見上げた。そしておなじみの半眼で言った。
「狼煙は?」
ドバンは言葉に詰まった。整備不良で点けることができなかったなどと、どうして言えよう。自分たちの怠慢で、死ななくて済んだ領民を死なせ、今また多くの人間を窮地に追い込んでいるのだ。申し訳なくて死にたくなる。いや、この体たらくでは一族郎党も連座して処罰を受ける羽目になるだろう。
アイレイはジャブジャブと水を跳ね散らして塔に歩み寄ると、驚くべきことにそのまま塔の壁を登り始めた。
塔の外壁を歩いてだ。
万物を地上に縫い止める力を無視するが如く、垂直の壁がまるで平坦な地面の如く、体を真横にし、それでいてとんがり帽子のつばや、翻す法衣は地面ではなく壁の方に垂れ下がっている。
理解を超えた現象を目の当たりにして過去一番の挙動不審な様子を見せたドバンだったが、アイレイが柱の間から狼煙台に入って来ると、それでも何か言い訳できることはないかと声にならない口の動きをし、やがてその成功の望みも薄いと見るや、役に立たない薪の山を触ってみせて首を振った。
アイレイは入って来た時から無表情だった。怒っているのか、呆れているのか、それとも絶望しているのか、読めない。東国人の表情は読みづらいというが、ここに来てそれを発揮するのは止めてほしかった。
女魔道士はドバンに近づきながら一言二言唱えると、手に持つ物騒な形の魔法の杖が青く光り始めた。ドバンはその杖についてアイレイが語っていたことをぼんやりと思い出した。
「その杖でなぐれば、たいていのやつは倒れるし壊れるよ」
ああ、そうか。
恐怖と絶望で頭の混乱したドバンは思った。この場で処分するということだ。ドバンは観念して目を閉じ、差し出すように頭を垂れた。アイレイが杖を振りかぶる。
風を切る音、次いで何かが木っ端微塵になる轟音。身を固くして末期の時を待っていたドバンはその音に飛び上がるとともに、それが自分に向かって振り下ろされたものではないことに奇異の念を抱いた。恐る恐る後ろを振り返ってみると、湿気って役に立たない薪が残らず吹き飛ばされている。残骸が塔の外に落ち、地面に降り注いだ。アイレイは無表情からやや半眼になりながら言った。
「なにやってんの。ドバン隊長、びびりすぎ」
涙目になって、だって……と言いそうなドバンの先回りをするように、魔道士は続けた
「予備の薪くらいあるでしょ。なかったら、そのへんの机とか椅子とかを壊せばいいだけ。救援が来るのに三日かかるんだったら、ここで10分くらい遅れても誤差みたいなもんだよ」
今や特務魔道士アイレイの目は大きく開かれ、いたずら娘のような光すら宿っている。
「やつらの弱点に目星をつけたんだ。もし当たってたら、ここを持ちこたえるどころか、やつらを一網打尽にできる。はずれても、相当長く足止めできる。だからがんばって。まだ終わりじゃない。薪を運んで、狼煙を組み直して。はい深呼吸」
涙の跡が残る顔で、言われるがまま、時折しゃくりあげながら、ドバンは深呼吸を何度も繰り返した。今まで浅く短かった呼吸が、深く、長くなってくるとともに、気持ちも落ち着いてくる。あまりにも気が動転していたので普段できることもできなくなっていたことにドバンは気づき始めた。
次第に落ち着きを取り戻したドバンの様子を見て、アイレイは優しく微笑んだ。
「もう、だいじょうぶ。私は水がどれだけ張ったかを見にいかなきゃならないからね、ここはまかせたよ。これを貸してあげるから、何か壊すものがあったら使って」
そう言うとアイレイは持っていた例の物騒な形の杖をドバンの手に握らせた。杖はまだ青い光に包まれたままだ。
「……!?でも、それだとアイレイが……」
「だいじょうぶ。私がこれからやることに杖は必要ないから。それに少し時間がかかるし、持ってたらかえってじゃまになるしね。間違っても自分の頭とかなぐっちゃだめだよ。死ぬから」
そう言い残すと、アイレイは踵を返し、狼煙台の外に出た。眼下では砦内に押し入った怪物たちを相手に、十数名の人間が必死の抵抗を試みている。今や人間たちは一塊になって小口の内壁に上るための階段に陣取り、病人──怪物たちにとっては苗床──のいる階上への道を死守せんとしていた。半数が大盾を持って怪物を押し留め、もう半数は後ろからそれを押しながら時折迫る怪物の付属肢を斬り落としていた。怪物に押し返されて倒れ、そのまま潰されそうな盾持ちがいると、後ろの者がすかさず引っ張り出し、また数人で盾を掲げ、力を振り絞って体ごとぶつかってゆく。悲惨な結果が見えている絶望的な足掻きだ。それでもそれを見下ろすアイレイの目は何の感情も見せなかった。むしろ細かくきょろきょろと動き、冷静に戦況を把握せんとしているようだ。魔法の機械によって井戸から汲み上げられ続けている水は砦の地表に薄く水の膜を張るまでに溢れ出、怪物たちの接地面は漏れなく水に浸かっている。
ドバンもその間、ただ突っ立っていたわけではない。アイレイの貸してくれた杖を持って大急ぎで階段を下り、予備の燃料が保管されているはずの部屋へと飛び込んだ。そこに薪は確かにあった。だが、数が全く足らない。こんな量ではせいぜい焚き火程度にしかならないだろう。なぜ足りないのかについて、考えている暇も後悔している暇も無い。辺りを見回したドバンは、古ぼけた机と椅子、道具を入れる棚を見て、一瞬の間の後、大きく息を吸い込んで、両手に握った青く光る凶悪な形の杖をそれらに向かって振り下ろした。
何という感触!
杖に重さはほとんど感じないにもかかわらず、その一撃を受けた家具は重い鉄球の一撃を受けたかの如くバラバラに吹き飛んだ。衝撃の瞬間、ドバンは杖の先端が不自然に加速する様を実感し、またこれだけの破壊をもたらしたのに、自らの身体にかかる反動はほとんど無く、杖に打ち込まれた釘は一本も曲がったり抜けたりすることなく整然とした並びを維持していることに驚嘆した。
二度、三度と杖を振るうと、辺りは木片の山と化し、ドバンはそれをそこらに投げ捨てられていた埃だらけの不潔な寝布に集めるだけ集めると、それを担いで階段を駆け上った。まだ足りないが、先に火を点けてしまおう。狼煙台に集めた木片をぶちまけると、ドバンはその中に松明を突っ込んだ。火の回りを早くするための組み方がどうという記憶が頭を掠めたが、すぐにかき消えた。程なくして木片の山は煙を上げ始め、点いた火はすぐに松明の火よりも大きくなった。ドバンはそれを見届けると、杖と寝布をひっ掴み、また階段を駆け下りていった。燃やし続けるにはまだまだ燃料が要る。今度はもっと下の階から燃やすものを取ってこなくてはならない。
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「押せ!押し返せ!」
ハイボルが背負った盾に全体重をかけながら怒鳴った。
「こいつらを地面から離れさせるな!階上に上げるんじゃあない!追い落とせ!」
いつまで耐えられるか、とハイボルは唇を噛んだ。宝剣キンミャーに装填される魔力瓶は全て使い尽くした。残りは今、柄に内蔵された瓶の一発分だけだ。しかしその最後の一発分も、アイレイへの合図兼、最後の切り札として取っておくように言われていた。奴らが砦に侵入した直後、アイレイが自分を呼び止めて耳打ちした策──火ではなく水を使う策については未だに半信半疑であることは否めない。その策の根拠になっている奴らの弱点にしても、あくまで魔道士の予想に過ぎないからだ。怪物たちはどんどん砦の中へ侵入してくる。人の体躯の3,4倍はあろうかという魔物を押し返すのは、相手が攻撃をしてこようがしまいが容易ではない。しかも段々と重くなっている気がする。アイレイの予想が当たっているのかもしれない。だが、それとともに自分たちの生き残る確率も段々と少なくなっていくのだ。
──術が発動する時、怪物はできるだけ多く水に浸っていなければならない。そして人間たちは階上に避難していなければならない──その作戦を成功させるために、文字通りの水際で攻防が繰り広げられている。いつまで耐えられるか。いつまで耐えればいいのか。小口には今や少しの隙間もなく怪物たちがひしめき合っている。ハイボルにも最早、数を数えている余裕は無い。怪物の全部が入ってきたかはわからん。しかし、これ以上は入らん!合図はまだか!
そう思った瞬間、夜空に閃く光が、砦を、その周囲の森を一瞬明るく照らし出した。
それを見るやハイボルは身を翻し、宝剣キンミャーの刃を怪物の脳天に突き立て、そのまま斬り上げた。月を背にした斬撃の軌跡が、影から光の中へと移り変わる刹那──ハイボルの鋭い目は、月明かりと、魔道士の放った徐々に弱くなりゆく照明玉の光の下でも、剣身が僅かに濡れていることを見逃さなかった。やはりだ。あの女魔道士の読みは当たっていた。確信し、ハイボルは宝剣の鍔元にある起動釦を押した。高々と掲げられた宝剣から、最後の炎が天を焦がした。
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ドバンが2回目の燃料補給を終えて荒い息を整えようと足を止めた時に見たのは、塔の最上部──狼煙台の脇、人が登れる筈もない尖った先端──にこともなげに立ち、両手を広げて半眼になり、静かに、大きく息を吸っては吐いているアイレイだった。一瞬、何をしているのか訊いてみたい誘惑に駆られたが、そんなことをしてはいけないというのもわかっていた。これから何かとてつもない事が起こる、これから起こることを邪魔してはいけないという、本能の自制だった。
果たしてアイレイの口から流れ出てきたのは、普段の彼女の声とは似ても似つかない不気味な音声だった。ぞっとするような、それでいてどこか不思議な懐かしさを感じさせるそれはドバンの耳に奇妙な届き方をし、人間の声という印象ですらなかったが、ドバンの心をすぐさま奪った。
早口でもなくゆっくりでもなく、決して大声ではなくむしろ囁き声に近いのにもかかわらず、その声は朗々と周囲に響き、あたかも天から降り注ぐように、そして真逆にも大地から湧き出すように辺りを支配し、それは単に空間を震わせるだけでなく、もっと根源的な何か──世界や次元を形作る枠組みのようなものに語りかけ、その枠組みの隙間を流れていくように感じた。
突如、ドバンは猛烈な冷気を感じた。感じた気がした。
人間には到底伺い知れない次元の最奥で、深淵にわだかまる、想像することすらできない何かが身じろぎしたような、そんな直感を得た。瞬時に全身が凍結する錯覚を覚え、一瞬後には我が身に流れる血の温かさを感じ、全身から冷や汗を噴いた。手足が冷たくなり、呼吸が浅くなる。まさに、死から生を瞬いたのだ。
魅入られたように聞き入っていたドバンは我に返り、自分がまだ生きていることにこの上なく感謝し、これ以上ここにいてはいけないことを悟った。時間にして数秒だったのか、数分だったのか。これ以上、あの呪文の詠唱を聴いてはいけない。あれはきっと人間の言葉ではなく、人間に語りかけるものでもないのだ。
ドバンは再び杖と寝布を掴んで階段を駆け下りながら、心中密かにアイレイから離れられることへの安堵の念を覚えた。今回一番の恐怖は、不気味な怪物でもなく、追い詰められたこの状況でもない。間違いなく、あの女魔道士だ。ドバンはそう思った。
同じことが戦場でも起きていた。特務魔道士が詠唱を始めると、人間たちは一様に身を震わせて全ての動きを止めてしまった。どこからともなく聞こえてくる不気味で異界的な旋律を持つ未知の言語は、兵士や民の心胆を寒からしめるのに十分すぎる効果を持っていた。耳が悪いとされる双子の老兵たちも辺りを薄気味悪そうに伺っていることからして、どうやらただの音声ではないらしい。ただ一人、ハイボルがその呪文に負けじと大声を出して周囲を奮い立たせた。
「あれは味方だ!固まるな!押せ!」
怒鳴りながら周りの者の背中を乱暴に押し、目の前に迫る脅威の方に目を向けさせる。
「アイレイ殿が魔法で攻撃を開始する!奴らを追い落とせ!最後の力を振り絞れ!目の前のこいつを落とすんだ!落としたなら、死ぬ気で階段を上れ!」
その檄に皆が一丸となり、盾を重ね合わせて怪物を階段下に追い落とそうとした。しかし、水分をふんだんに吸い上げて重くなった怪物の表面はいよいよぬめりを増し、上手く力を込められない。呻き、叫び、悪態をつき、ついには逆に押し込められ、全員が将棋倒しにされそうになったその時──
「頬当てと酒のアテにかけて!」
彼らの背後から躍り出た人影が、鉄の銛を怪物に突き刺した。銛を両手で握った長身の老人が、銛の重みと自分の全体重を乗せた突撃そのままの勢いで怪物をぐらつかせる。
「ヘネシー!!!」
アスコットが叫び、手を伸ばした。だが、遠すぎる。
「アスキー、帰りの切符は無えんだよ!最期にこのキノコどもに一発くれてやらねえとなあ!ドバンの嬢ちゃんによろしく言っといてくれや!」
「オラッ、この#$%&野郎!落ちろ!落ちやがれ!」
ヘネシーが銛に掴まったまま力の限り体を揺らし、さしもの怪物もその巨体を僅かに斜めにする。その機を逃さず、兵士と民は態勢を立て直して吶喊し、最後のぶちかましを仕掛けた。ぶつかる盾と粘液。怒声と共に膨れ上がる人間たちの筋肉。菌糸の怪物は傾く勢いに耐え切れず、ついに──横倒しになって階段を転げ落ち、下にいた仲間たちを薙ぎ倒して倒れた。
塔の上ではドバンが呼吸を乱して壁にもたれかかっていた。もう、燃やすものは無い。塔の中にあった目ぼしいものは全て叩き壊して薪の山とし、最後に寝布ごと投げ込んだ。背後で続くアイレイの詠唱に耐えながら、ドバンは明々と燃え上がる炎を、その向こうの月明かりに照らされる山の稜線にあるはずの中継所の方角を見つめていた。光量は十分だ。この燃料でどれくらい維持できるか。早く気づいて!早く!
息を止め、目を見開き、呪文への恐怖も忘れ、ドバンは祈り続けた。お願い!お願い!お願い!気づいて!
月が雲に隠れ、真闇が山の輪郭を隠した。
世界が狼煙の炎と煙、アイレイの唱える呪文の詠唱だけになったと思ったその時、呪文の最後の言霊が嫋々たる余韻を残し、世界の深奥に吸い込まれてゆこうとするその瞬間──
ドバンは、砦にいた人間全員は、何か巨大なものが急速に近づいてくる感覚に襲われた。圧倒的な何か、人智を超えた何かが、時間も空間も超越してここに顕現しようとしているのを、ただ本能で感じた。
ハイボルが階段を飛び降り、怪物の只中に倒れたヘネシーを助け起こす。
領民の若者数人が叫びながら手を伸ばす。
ヘネシーを担ぎ上げ、鬼の形相で階段を匍い上るハイボル。
ハイボルとヘネシーの上衣を掴んで半ば倒れ込みながらも満身の力を込めて引く若者たち。
呪文の最後の言の葉が、拡散した。
音なき震動。破壊なき断裂。
無音で硝子板を粉々に割り砕くような感覚がその場にいた人間たちを襲い、次いで凄まじい勢いで何かが吸い取られる感覚が足元であった。
誰もが恐怖と驚愕に声も出せずに目を見開く中、彼らの目の前で、速やかな変化が怪物たちに起こった。
悍ましく蠢いていた脚部や付属肢は瞬時に動きを止め、格子状の不格好な頭部も震えて動くのを止めた。そこかしこに響いていた不快な粘つく水音も一瞬で静まりかえった。音の無い世界で、ただ篝火の炎だけが、時間の経過を伝えている。
びょう、と風が吹いた。
雲が晴れ、満月が再び顔を出す。
冴えざえとした月光の下、全ての怪物が凍りついていた。
いや、凍りついたなどという生半可な言葉では済まないだろう。
月明かりに照らされた砦の小口いっぱいに、微動だにしない怪物の像が林立していた。今まで散々に自分たちを苦しめた脅威が、特務魔道士が振るった魔術の恐るべき力に屈し、沈黙している。それは悪夢の写実であり、誰も見たことがない、狂気の芸術家の脳内のような光景だった。
命からがら階上に逃れた兵士と民は、足下から立ち昇り、怪物だけでは飽き足らず、自分たちをも捕食せんばかりに絡みつく冷気に恐慌状態に陥り、顔を引きつらせて後ずさった。
塔の上から戦場の激変を固唾を呑んで見守っていたドバンの隣に、アイレイがふわりと降り立った。まるで下手くそな操り人形のようにぎこちなくドバンは首を回し、ほとんど畏敬の念に近い眼差しでアイレイを見た。そんなドバンを見て、魔道士は鷹揚な笑みを浮かべ、ドバンの背後を指差した。
振り向くドバン。
月明かりで再び輪郭を取り戻した山の一箇所に、瞬く灯がぽつんと見える。ドバンは、あっと叫んで狼煙台の端に駆けた。小さく、弱々しく見えた灯はしかし、みるみるうちに明々と揺らめく炎となり、やがてそれを明滅させて、「我 通報ヲ受ク」の光信号を送ってよこした。砦の西にまたがるニート山脈、ジョー=オン峠中継所が気づいてくれたのだ。
ドバンの目に涙が溢れた。助かった。助かったのだ。必死の苦労は、恐怖と絶望に耐えた苦労は、報われたのだ。これで援軍が来てくれる。怪物も、残らずアイレイが凍らせてしまった。当面の間かもしれないが、脅威は取り除かれたのだ。
その場にへたりこみ、誰はばかることなく声を上げて泣き出したドバンに、アイレイが優しく寄り添う。
「アイレイ……」
涙と鼻水に塗れたドバンに、あの鷹揚な笑みを浮かべながら、女魔道士はその手にしたものをドバンに優しく握らせた。ずしりとした重さ。ガチンという落下音。
「………………え?」
持たされた大金槌を見て、ドバンの口から乾いた声が漏れた。
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「そ。火が効かないなら、水ってね♪」
青い光を放つ魔法の杖を振り回し、怪物の冷凍を片っ端から粉砕しながら、アイレイは鼻歌交じりに言った。
「実際はそんな単純じゃないけどね。始めから温度を下げて凍らせてみようと思ってたけど、体内の水分のほとんどを粘液として使ってるなら効果は薄い。だから逆に、内側から燃やすのはよく効いたんだと思う。でも、燃やすと、燃え尽きる前に奴らは胞子を飛ばしてくるかもしれない。だったら、どうするか?水を吸い上げて粘液を作っているなら、もっと水を吸うんじゃないか?って思ったのよ。水を吸えば燃えにくくはなるけど、低温には弱くなるはず。だから、奴らが井戸水をたっぷり吸うように細工して、できるだけ一箇所に集まる好機を待ってたんだよ。何体かは効果範囲外だったけど、まーほぼ一網打尽だよね。ねえ、聞いてる?ドバン隊長?」
額の汗を拭い、震える腕を無理矢理に動かして、ドバンは大金槌を振りかぶった。振り下ろしたそれは凍りついた怪物の体をバラバラに打ち砕いた。その残骸から立ち昇る胞子の煙は無い。あとどれほどこれを繰り返せばいいのか。しかし、ドバンは弱音を吐かない。アイレイの話を聞いている余裕は無かったが、痛む身体を気にかけていることも無かった。
周りを見渡せば、戦いを切り抜けた兵士と民が、いっしょになって働き、岩や金槌を振るって動かぬ氷の彫像と化した怪物を砕いている。芯まで完全に凍っているうちに、砕いてしまわなければならない。作業は弩砲で岩を放つことを思いついた老マッカランのおかげでその効率を上げていた。惜しくもアイレイの極低温魔法から逃れた個体は全て、ハイボル率いる別働隊によって綱のついた鉄の銛を何本も突き刺され、動きを封じられた。
怪物の苗床にされた犠牲者たちの遺体は回収され、一箇所に集められた。特務魔道士曰く、損傷が激しいので、そのまま荼毘に付すべきとのことだった。彼らを救うことができなかった事実に、ドバンは忸怩たる思いを新たにした。
どれほど身体が痛んでもドバンが作業を止めないのは、その思いがあるからだ。かつて自らを苛んだ陰湿な虐めによる痛みを、あの悪夢の日々を上回る心の痛みが、ドバンの魂を鞭打ち、奮い立たせていた。死ななくて済んだ命。二度とは戻らぬ人の生。泣き崩れる女たち。事態を把握できずに立ち尽くす子ら。守れなかった笑顔、幸せ、未来……
以前のドバンなら、ちっぽけな自分の力では何もできぬと、どれほどの惨劇が起きても背を向けて逃げ出し、隠れる所を探しただろう。鼻を啜り、ドバンは黙々と怪物を砕く。振り下ろされる大金槌を振るう力、それは怒りからのものでも、憎しみから来るものでもない。目に涙を溜め、ドバンはそれでも力の限り金槌を振るい続ける。一撃、また一撃。それは弱かった自分への決別の連撃であったろう。
若年ながら勇敢なる騎士レイモンサウアー。
指揮官としても頼りになる男、斥候ハイボル。
鷹揚な笑みの裏に知性と冷静さを隠した特務魔道士アイレイ。
粗野で野卑だが死を賭して戦ってくれた砦の老兵たち。
恐怖を克服して最後まで戦い抜いた領民たち。
数々の者たちと共に絶体絶命の死地を脱した経験は、ドバンに確実に変化をもたらしていた。
もう、二度と。
東の空が白む。
もう、二度と、繰り返させない。
意志は固く、その双眸は揺るぎない。
もう、心を病んで逃げるように閑職へ転属してきた哀れな士官は、ここにはいない。
後にミッズワーリー砦を死守した指揮官、不屈の勇者と称えられる戦士ドバンが、ここにいた。
あっ、と小さく洩らし、ドバンの手から大金槌が離れた。打ち損ねたのだ。
肩で息をし、ついに座り込んだドバンに、アイレイが近づく。明るくなる空を背景に、女魔道士はおなじみの鷹揚な笑みを浮かべながら、両手に持った物体の片方をドバンに差し出した。
「アタシも毎日飲んでるからね」
泡立つ黄金色の液体。鼻水で効かなくなった鼻にも薫る、豊かな芳香。
「まだ終わってないけど、とりあえず仕事終わりの一杯ってことで!」
疲労困憊して困り顔のドバンの口元が、次第に笑顔になる。
……今日も、無事、禁酒失敗……
座り込んだままのドバン。中腰のアイレイ。
二人の打ち合わせるエールの大杯の向こうに、夜明けが輝いていた。
(完)