『インドラネット』の混沌
桐野夏生さんの『インドラネット』を読みました。
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桐野夏生さんの本は好きで何冊が読んでいます。もし「全集」が出るなら買うだろうと思っている大好きな小説家です。
この『インドラネット』を読もうと思ったきっかけは、少し前に近藤紘一さんの『戦火と混迷の日々』というクメール・ルージュに関する本を読んでいたからです。『インドラネット』が「カンボジアに消えた親友を探しにいく話」と知って、「ぜひ読んでみたい!」と思いました。
主人公は三流大学を卒業した外見もファッションも冴えない20代の男。正社員で就職することはできなかったので非正規雇用。家はほとんどゴミ屋敷で、会社では堂々と男尊女卑発言をして女性社員からひんしゅくを買っているというよくいる「こじれた」タイプです。
そんな彼の唯一の自慢は「空知(そらち)」というカリスマ的な魅力を持った容姿端麗な男友達と高校時代に親友だったこと。その空知が「カンボジアで行方不明になった」と聞いて、主人公は会社を辞め、カンボジアに向かうのです。
私はこの「冴えない毎日を送っている冴えない男」が、突如として非日常に放り込まれ、環境の変化に戸惑いながら進んでいく、という物語が大好きなので、とても楽しめました。
また「混沌としたカンボジア」の描写が素晴らしく、主人公と一緒にカンボジアを旅している気分になります。出会う人々も、誠実なのかだましているのか、最後まではっきりしないところがあり大変スリリングです。
この「いきなり非日常に放り込まれた」主人公が、一種の不気味さをともなう日々に巻き込まれるあたりは、イタリアの作家アントニオ・タブッキの『供述によるとペレイラは…』を思い出します。また、混沌とした世界で、一体自分が探しているのは親友なのか、それとも自分自身なのか、だんだん分からなくなってくるあたりは、同じくアントニオ・タブッキの『インド夜想曲』を彷彿とさせます。どちらも須賀敦子さんの素晴らしい訳で読めますので、ご興味ある方はぜひ…
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(もしかして、知らない間に絶版??)
この『インドラネット』は、全てが投げやりで他人任せだった主人公が、だんだん逞しく成長していき、最後には別人のようになっているところに凄みがありました。
桐野夏生さんらしく、きれいごとだけではない、また余白を残した終わり方です。カンボジアに興味がある方は、特に楽しめると思います。
そしてここからは、壮大にネタバレします。それでもいいという方だけ、ご覧ください。
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「空知」という特殊な名前、そして彼も彼の姉妹も両親と全く似ていない、というあたりから、「彼らはおそらくカンボジア人で養子であろう」ことは、割と最初のほうで読者は気づくと思います。それに気づいたとしても、最後まで緊張感を持って読ませるのは、さすが小説家、さすが桐野夏生さん!という感じです。
私が一つひっかかったのは、「そんな政治的立場の複雑な家族がすんなりパスポートを取得でき、また日本人の国際養子になることが可能だったのか」ということです。日本は国際養子縁組は、特に血がつながっていない場合は事実上不可能なのではないか。当時、インドシナ難民に対して特別措置があったのかどうかは分かりませんが…そのあたりがちょっとひっかかりました。
あと、空知の妹がカンボジアの王族の愛人として生きていた話。この妹は日本に行ったときは1歳です。だとしたら、一番日本人化していたはずで、今更、兄と姉がカンボジアに行ったからといって、「愛人」になってまでカンボジアで暮らしたいと思っただろうか。
そのあたりがどうもひっかかってしょうがなかったです。
しかし、小説自体のパワーというか、癖のある登場人物から発せられるエネルギーがすさまじく、1日で読み終わってしまいました。
この本を読んでカンボジアに興味を持つ人は多いはず。読んだ人はみな『インドラネット』という網にとらわれ、ちょっと呆然とするんじゃないかと思います。