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アメリカに残って得たもの

10年前、某会社のアメリカにある子会社で駐在員をしていた。そこで1年と少し働いたあと、日本に戻ることなく現地で退職し、8ヶ月ほど語学学校に通った。

この部分は、転職面接で必ず質問される。
「え、10年もお勤めになった会社を、駐在先の現地で辞めたんですか?」
「わざわざ会社を現地で辞めたその経験ってルルさんにとって、結局なんだったんですか。」

私が現地で辞めることを決心した理由は、端的に言えば、自分の人生を変えたかったからだ。
私は、30年間ずっと地元から出たことがなかった。
さすがに親元を離れてはいたが、地域や組織の保護の中に居たと思う。
その狭い空間の中で、学歴や経歴や持っているブランド品で自分を必死に飾りたてていた。

アメリカに赴任した時、私を飾り立てていた金メッキはぼろぼろと剥がれ落ちた。
アメリカでは、日本の狭い地域では通用していた学歴も経歴も、全く通用しなかった。日本ではおしゃれな服もアメリカでは浮いた。

英語もなかなか上手く話せなかった。
マクドナルドでチーズバーガーセットを注文すれば、なぜかチーズバーガーが二個ついてきてしまったり、スーパーのレジで話しかけられても上手く英語で返せなくて自己嫌悪に陥ったりしていた。

なんとか自分の中で何かをつかもうと、がむしゃらに働いた。
日本で嫌味や僻みをぶつけてきた人たちを見返してやりたかった。
徹夜で仕事をしたこともある。
自分を追いこんで仕事をして、疲れ果てていた。

そんな状況の中で、徹底した個人主義の国で、私は常に「あなた」を問われ続けていた。
その答えを見つけることが出来ず、私は完全に自分を見失った。

現地の日系税理士事務所で働く日本人など、仕事で関わった日本人はみんな、アメリカに居ることが楽しくて楽しくてしょうがない、という感じだった。
学生時代、バイク盗まれちゃったこともあるけど、ま、それもアメリカだよね!みたいな。

羨ましい、と思った。
アメリカを楽しめていて羨ましい、と言うよりは、嫌な目に遭うことを少しも怖がっていないそのエネルギーが羨ましい、と思った。
嫌なことや大変なことさえも楽しい、と思える感覚。
そういうの、自分にはないなあ、と思った。

現地の従業員を見ても、皆、「今」を楽しんでいた。
考えてもしょうがない不安や悩みは、とりあえず踊って忘れちゃおう、という感じだった。決して高給取りとはいえない時給制の仕事をしているラテン系の人たちばかりだったけど、それなりにお給料をもらっている私より、ずっと楽しそうに生きていた。

私はずっと、学歴や組織にしがみついていただけだった。
人生、楽しむのも悲しむのも自分次第だというのに、自分の人生に責任をもつことを放棄していた。

責任感が強い人だと思われていたけれど、その責任は自分の人生に対してではなかった。
自分の人生に自分で責任をとれる人になりたい、と思った。
皆の後ろについて、エスカレーターに乗ってしまうのではなく、一段一段、自分の足で階段を昇っていきたかった。

30年間生きてきたやり方を変えるには、相当のやり方でないと無理だと思った。だから、現地でやめることを選んだ。

アメリカに合法的に滞在し続けるためには、相応のビザが必要になる。
会社をやめてしまえば、駐在員ビザで滞在し続けることはできない。
語学学校の仲介業者に、日本人の移民弁護士事務所を紹介してもらった。

日本に帰国して学生ビザを取り直す方法では、申請が通らないだろう、と言われた。なぜならば、米国ビザには学生ビザ、観光ビザ、インターンシップビザ、就労ビザ、駐在員ビザ、といろいろな種類があり、その中でもアメリカで就労する権利がある就労ビザと駐在員ビザは、格が違うのだそうだ。

だから、移民局としては、「なんですでに駐在員ビザで仕事をしている人が、今更、語学学校に通うの?」ということになる。
自分の専門性を高めるために、四年生大学へ入学したい、ということだと話はまた変わるらしいが、当時の私にはそこまでの時間と語学力はなかった。

「アメリカから一歩出れば、戻ってこれなくなる可能性が高いです。」
と言われ、日本に帰国してからビザを取り直すのではなく、アメリカに滞在したままステータスを変える方法を教えてもらった。
申請が通る可能性は70%。審査に要する期間は半年程度。
「それでお願いします。」
と決めた。

あの時の私の行動力は凄まじかったと思う。
移民弁護士事務所と語学学校を駆け回り、家具家電を処分し、赴任してきた時はダンボール40箱近かった荷物を、10箱程度にまで減らして部屋を間借りさせてくれる友人の家に運び込んだ。

退職手続きは、書類のやりとりだけで済んだ。
人事には「こんな辞め方してタダで済むと思うな。」と言われたが、たまたまアメリカへ視察に来ていた本社の社長の承諾を得て、無事に退職した。

辞めた後、私を襲ったのは、開放感などではなかった。今までずっと、組織に守られて生きてきたのだ。
これからは自分で考えて、自分の足で生きていかなくてはいけない。
未来への不安に襲われる中、一日一日を生きるのに必死だった。

ロサンゼルスは車社会だ。
会社にいた時は、会社がリースしている車を使っていたが、辞めてしまっては、それも使えない。
移動手段は、徒歩、自転車、バス。
それらを組み合わせて、片道30分以上かけて語学学校に通った。
日差しが強いロサンゼルスだ。
日焼け止めを塗っていても、肌は一日で真っ黒に焼けた。

ビザステータスの変更は、いつ申請が通るのか、もしくは却下されるのかわからない。
明日への不安と闘いながら、毎日、学校に通った。

そういう状況だった私は、移民としてアメリカにやってきて、英語がろくにできないなかで、日々奮闘している語学学校のクラスメートの気持ちがよくわかった。

明け方まで肉体労働をして働いて、少し眠って、バスを2本乗り継いで通ってくるアフリカから来た男の子がいた。
バスは時間通りには来ない。1時間や2時間に一本しか走ってない路線もある。
一本目のバスに遅れたら、二本目には乗れない。
それでも、懸命に通っていた。
彼の見た目は、いかつい黒人なのだが、間が抜けていて、人が良かったから、みんなに好かれていた。

彼みたいな人は、クラスにたくさんいた。
みんな異国の地で、一生懸命生きていた。
私が駐在員という立場で、大きな家に住んで車もあって、明日への不安もない状態だったら、彼らに対して、共感したり関心をもったりしただろうか。
貧しい国から国から来た出稼ぎ労働者。
それ以上の感想を持つことは、なかったのではないか。

自分自身、車も家もなくて、お金はカツカツ。日差しで肌は真っ黒、髪はバサバサに傷んでいた。
明日、どうなるのかもわからない。そういう状況だったから、彼らの切実さがよくわかった。

ドナルド•トランプが再び大統領に返り咲き、徹底した移民対策をしようとしている。
アメリカでの、あの経験がなければ、自分には全く関係ないことだと思っていただろう。
異国の地で地を這うように、必死で生きている人たちのことを考えることはなかったと思う。

私がアメリカで学んだのはそういうことだ。
それは、履歴書には書けない。
面接でもうまく説明できない。そんなつまらない話、大抵の面接官は聞きたがらないからだ。
でも、それは、今の私を作っている大事な経験のひとつだ。

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ルル秋桜
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