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医事課さん ~困った老人 Vol.1~
医療事務の世界って、どうなっているのでしょうか?
受付カウンターの向こう側って、どんな世界が広がっていると思いますか?
私自身、医療事務の仕事を20年近く続けてきて、色々なことを体験してきました。 事務同士のいじめにも合いましたし、色んな患者さんや個性豊かなスタッフ、ドクターの方々と関わりながらお仕事をしてました。
ですが、常にモヤモヤしているのは、医療事務という仕事があまり知られてないことです。国家資格を持たない医療事務は、病院の中でも常にすみっこ暮らし。
もっと、医療事務という仕事を知ってもらいたい。そして、皆さんに医療保険についても知ってもらいたい。
そんな思いから、物語なら面白く伝えられるのではないか、と妄想、執筆してみました。
ストーリーは、実際に私が体験したことをベースにアレンジしています。
シリーズにして、少しずつアップしていきたいと思っていますので、お読みいただけると嬉しいです。
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午前11時30分、外来の受付が終了する。
受付担当のまみは、すかさず「受付終了」のプレートをカウンターに置いた。
「はぁぁ、やれやれ、やっと終わるね」
午前中いっしょに受付カウンターを担当していた、理子が声をかけてきた。
「て、えぇ!まだこんなに受付残ってるの?」
まみの前には、時間ぎりぎりで駆け込んできた患者の診察券が、5~6枚積まれている。
「早くやらないと叱られちゃうよ!」
理子の声が急に大きくなる。
そして、急いで診察室に連絡を入れる。
「すみません。受付ですが、まだ受付終了してない患者さんが5人ほどいまして…。はい、すみません」
診察室からブーイングをうけているのか、理子は受話器を片手にペコペコ頭を下げる。
受話器を置くと、もたもた受付をしているまみを手伝って、手早く全員分の保険証を確認していく。
受付担当にとって、時間内に受付を済ませることは絶対。
外来診察室では、受付患者の人数を見ながら診察を進めていく。時間外に受付患者が増えると、診察のスケジュール調整ができなくなってしまう。
ましてやお医者さんたちは忙しい。
複数の病院を掛け持ちして、ひとつの病院が終わったら次の病院に移動する医者もいれば、午後は入院患者を診る医者もいる。
受付が時間内に済まないと、患者の人数が把握できず、こうしたお医者さんたちのスケジュールにも影響してしまう。
そうした事情があるにもかかわらず、終了間際に駆け込んでくる患者はけっこういる。
駆け込んでくる側にも事情があるだろうし、なんとか診てもらいたい気持ちも理解できるから、断るのは本当に申し訳ない気持ちになってしまう。
ましてや、気弱なまみは断るのが苦手だ。なるべく相手に寄り添う形で、丁寧に頭を下げてお断りするので、駆け込みが多いほど時間がかかってしまう。
今日も、そんなこんなで、時間内に受付できない患者が残ってしまった。理子の助けがなかったら、診察室からクレームがきてしまう。
「はぁ~、助かった。理子ちゃんありがとう。」
ようやく全員分の受付を終えると、まみはため息をついた。
「やっと目の前患者が全部いなくなった~。これで受付カウンターから解放される~」
まみの勤める病院には、自動再来機はない。未だに受付担当に診察券と受診科を伝えて受付してもらうシステム。しかも、まみはのんびり屋で受付が苦手だ。保険証も時々確認ミスをして、先輩たちから叱られてたりしている。
手伝ってもらった感謝を込めて、まみは理子に屈託のない笑顔を向けた。「いいけどさ、早く午後の準備しないと。ほら、もう午後の順番待ちしてる人いるよ。」
しっかり者の理子が促す。
「おっと、そうだった」
まみは急いで午後の案内表をカウンターに出す。
今日の午後の診察は、内科と眼科、耳鼻科、小児科、皮膚科、それと整形外科の星野先生。 午後の内科は予約診療だけだから、急患は受け入れない案内も出しておかなくては。
カウンターを整えて、午前の業務は全て終了。
待合ホールの片付けまで済ませると、ようやくまみたちはカウンターの後ろ、事務室へ戻ることが許される。
「のど渇いた~!水、水!」
事務室に戻るなり、理子は冷蔵庫を開けて水をとりだし、勢いよく飲み始めた。
「水飲む暇もないんだもん、忙しすぎだよ。私、医療事務って座ってできるカッコイイ仕事だと思ってたけどさ、めっちゃ重労働だよね。知らんかった!」
仁王立ちで喉を鳴らしながら水を流し込こむ姿は、まるでおっさんだ。
「私トイレ行ってくる。ずっと我慢してたんだ。」
さっきからもじもじしていたまみが、理子の脇をすり抜けようとする。
「え~?早く行ってきなよ!体に悪いよ!」
「うん。理子ちゃん!どいてくれ!」
ここで理子は、まみを通せんぼしていたことに気付いて道をあける。
「ごめん、ごめん」
午前中ずっとトイレを我慢してたので、そろそろ限界。
理子の声を聞きながら、まみは待合に続くドアを飛び出した。
トイレは待合ホールの向こう側にある。まみが速足でホールを横切ろうとすると、困り顔の老人がホールの真ん中にぼんやりと突っ立っていた。
80歳は超えているであろう男性。
歩く足元がおぼつかない。
こんな時間にどうしたんだろう?受け付けかな?
午前の受付はとっくに終了しているし、午後の受付開始まではまだ1時間ある。
気になったまみは声をかけてみた。
「午前の受付はもう終わりましたよ。午後は1時からですけど。」
すると老人はぼんやり答える。
「うん」
そしてぼんやりとソファーに座ると、まみを見る。
「あのさ、何にもないの」
「はい?」
「だから、ないの。全部ないの」
言っている意味が分からない。
認知症?
困った。とりあえず状況をつかまないと。
「ひとりで来たんですか?どうやって来たの?」
老人はそれには答えず、ぼんやりと座り込んでいる。
質問の意味が分からないのだろうか?
周囲には家族らしき人も見えない。
まみが迷っていると、老人が
「タクシー」とぽつんと答えた。
以前、近くの介護施設を抜け出した老人が、タクシーで乗り付けてきたことがあった。
その時は、財布も何も持っていなかったので、支払いができない、身元も分からないで大騒ぎになったのだが、今度もそんな感じだろうか?
まみはそんな状況を疑いながら聞いてみた。
「タクシーはもう帰ったの?支払いは?」
「お金は払ったよ。だけど降りたら、何にもないの。鞄も携帯も。」
「鞄を持ってタクシーに乗ったの?」
「うん」
「じゃあ、タクシーの中に忘れたってこと?」
「多分」
「え~!!」
まみは急いで玄関を出てみたが、そこにタクシーの姿はない。まだ、診察の終わらない患者の車が数台あるだけだ。タクシーがいないなら、支払いを済ませたことは確かだろう。まみは急いで老人のところに戻って聞く。
「どこのタクシー会社か覚えてる?」
「覚えてるよ。いつも使ってる… あの… にこにこタクシーだ。」
「にこにこタクシー」なら知ってる。地元密着のタクシー会社で、「にこタク」の愛称で地元民に親しまれている。とりあえずタクシー会社に連絡を入れて、忘れ物を確認してもらうしかない。携帯も財布もないなら、老人が自分で連絡を入れるのは不可能だ。事務室から連絡を入れるしかないだろう。
まみが事務室に帰ると、理子が振り向いた。
「トイレ済ませた?」
まみはそれには答えず、ことの顛末を理子に相談する。
「やっぱり、にこタクに連絡するしかないよね?戻ってきてくれるかな?」
「うーん?どうかな?とりあえず連絡入れてみたら?」
タクシーは慈善事業ではないのだから、戻ってきてくれ可能性は低いだろう。それでも地元密着の会社なら、暖かい対応が期待できるかも知れない。
まみは急いで受話器をとる。普段のんびり屋のくせに、こういう時だけは行動が素早い。
にこタクに電話を入れると、人の良さそうなおじちゃんが電話にでた。
まみは少し安心しながら、状況を伝える。タクシーが戻ってきてくれることに、一抹の願いを込めて。
だが、残念ながらタクシーが戻すのは難しいと言われた。
忘れ物は、営業所で預かって本人確認してから返すことになっているという。どのタクシーが乗せたのかも分からないので、とりあえず営業所まで本人に来て欲しいという返事だった。
「どうしよう?何も持ってないのに、どうやって営業所まで行ってもらおうか?」
まみは頼るような視線を理子に送る。
「うーん?家族呼んじゃう?」
理子が答える。
「てか、そもそもうちの患者さんなの?」
そうだ!そこの確認を忘れてた!
まみが老人のところに戻ろうとすると、
「はい!そこまで!」
ふたりを止める声がした。
声の主は愛子。事務室のリーダー的存在。
天皇家の愛子内親王にかけて、「愛子さま」と呼ばれている。
愛子さまは頭脳明晰で常に冷静。算定や保険制度にも詳しい頼りになる存在だが、言葉にトゲがあるのがちょっと困る。
「ふたりとも入り込みすぎ!もう昼休憩の時間でしょう?早く行かないと午後の受付始まっちゃうよ」
「でも…」
まみがもじもじしながら反論を試みる。
「あのまま放っておくわけには…」
「そもそも、うちの患者かも分からないんでしょう?そのうち家族が気が付いて迎えに来るんじゃないの?」
「それはそうですけど…。一人暮らしかも知れないし…」
「だったら、まずうちの患者か確認してきて。家族がいたら家族を呼ぶ。それでおしまい。いい?」
愛子様にたたみかけられて、まみは反論できなくなった。
「患者さんの問題に入り込みすぎたら、自分が大変だよ」
「はい」
叱られたわけではないけど、まみはしょんぼりしながら老人のところに向かう。そして、タクシー会社に言われてことを伝えた後、自宅の電話番号を聞いてみた。
だが、老人はそれには答えず、
「桜井先生。今日いるんでしょう?」とだけ言う。
桜井先生は、内科の人気医師。
やさしい物腰と笑顔が評判の女性医師だが、今日は予約外来のはず。
なら予約患者か?
うちの患者なら、患者登録から情報を引き出せる。
話していても埒があかないなら、登録画面を見た方が早い。
「おうちの番号を教えてください。ご家族はどなたかいますか?」
「お名前も教えてもらっていいですか?」
まみは辛抱強く聞いてみる。
もごもご口ごもっていた老人だが、まみの根気に負けたのか、ようやく名前と自宅の番号を口にした。名前と電話番号が分かれば、情報の特定は簡単だ。まみは、さっそく患者登録から老人の情報を引っ張り出す。
すると。
「うそ⁉」
まみは、頭を抱えた。
この老人、実はとんでもない患者だった!
老人の名前は川村平治。83歳。
確かにまみの病院で定期的に診察を受けていて、担当も桜井先生でまちがいない。だけど、今日の予約は入っていないし、過去2回ともお薬だけもらって帰っている。検査も診察も受けてない!
てことは、お薬だけの常習犯だ!
電子カルテの覚書には、
「次回必ず採血のこと。検査、診察しない時は薬の処方もしない。」
と書かれている。
「あちゃ~」
後ろで一緒に画面を見ていた理子がつぶやく。
「ふん」半笑いの愛子の視線が、背中に痛い。
ふと我に返った。
「あ、トイレ…。行くんだった」
~Vol.2へつづく~
まみは、いつトイレにいけるのでしょうか?