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第2章:霧の足音

田嶋涼は地方都市の駅からさらに車で山道を登り、霧深村へと続くとされる道を目指していた。奈津子から借りた古びた手記には、村についての不穏な記録が綴られていた。消えた村人たち、霧の中で聞こえる謎の足音、そして霧の主――その姿を見た者はいないという。
エンジン音だけが響く中、田嶋の頭には手記の中の一節がこびりついていた。
「霧深村は、ただの場所ではない。そこに足を踏み入れた者は、現実と非現実の境界を失う。」「現実と非現実、か……」
ハンドルを握る手に力が入る。視界が徐々に薄白い霧に包まれていくのを感じた。辺りは不気味なほど静かで、風の音すら聞こえない。
突然、カーナビが奇妙な音を立ててフリーズした。
「またかよ……」
車を止め、田嶋はナビ画面を操作しようとしたが、完全に反応しない。ふと外を見渡すと、霧が濃くなっていることに気づいた。まるで、自分が動くのを待っているかのように霧が迫ってくる。
「嫌な感じだな……」
そんな独り言を漏らしながら車を再び走らせると、数分後、ふいに視界の端に人影が揺れた。「えっ?」
急ブレーキを踏む。車が小さく軋みを上げて停止する。田嶋は急いでドアを開け、人影が見えた場所へと駆け寄った。しかしそこには、誰もいない。
「見間違いか……?」
そう思いながらも、背後に感じる視線に背筋が寒くなった。
「誰かいるのか?」
辺りを見回すが、霧が厚くなるばかりで何も見えない。耳を澄ますと、微かに足音が聞こえる気がした。霧の中から近づいてくるような、乾いた音だ。
「……おい!」
田嶋は声を張り上げたが、返事はない。足音は止まった。静寂だけが周囲を包み込む。
「……気のせいか。」
そう自分に言い聞かせ、車に戻ろうとした瞬間、背後で何かが落ちる音がした。
「!」
振り向くと、小さな石が地面に転がっていた。まるで誰かが投げたかのような位置だ。だが、そこには誰もいない。
「……なんだこれ。」
田嶋は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。再び車に乗り込むと、急いでエンジンをかけた。
さらに車を進めると、道が舗装されたアスファルトから土の道に変わった。霧はさらに濃くなり、ヘッドライトがほとんど役に立たない。次第に不安が胸を満たしていく。
しばらくして、突然車が動かなくなった。エンジンが停止し、ヘッドライトも消える。
「またかよ……頼む、動いてくれ!」
何度もキーを回すが、エンジンはうんともすんとも言わない。仕方なく車を降り、懐中電灯を手に歩き出した。地図を片手に霧の中を進むと、不意に目の前に古びた木の看板が現れた。「霧深村――ここより先、自己責任」
木製の文字は半ば朽ちかけているが、メッセージははっきりと読めた。
「……これが入口か。」
田嶋は緊張と興奮を抑えながら足を踏み出した。その瞬間、背後で女性の声が聞こえた。
「やめて……引き返して。」
「誰だ!」
振り向くが、そこには誰もいない。耳鳴りのように残る声が、彼の胸をざわつかせた。
「霧深村……行くな……」
その声がどこから来ているのか分からないまま、田嶋は足を止めることなく進み続けた。頭の中で響く言葉を振り払うように、心の中で繰り返す。
「真実を知りに来たんだ。引き返すつもりはない。」
霧の中、村の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。古びた木造の家々、朽ちた鳥居、そしてそこに漂う不気味な静寂。
ついに、田嶋は霧深村の入り口に立っていた。そのとき、彼の耳元で再び足音が響いた。
「カツ……カツ……」
背後を振り返ると、霧の中にぼんやりと人影が立っていた。それは、ゆっくりと彼の方へ向かってくる――しかし、奇妙なのは、その影が少しずつ消えていくように見えたことだ。
「なんだ……あれは……?」
田嶋の喉が乾く。その影が完全に霧に消える直前、微かに笑う声が聞こえた。
「来たね……待っていたよ。」
田嶋は立ち尽くしたまま、次の一歩を踏み出すべきか迷っていた。だが、心の中で何かが囁いていた。
「行け。ここで引き返せば真実には届かない。」そして、彼は霧深村の中へ、完全に足を踏み入れた。



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タコさん
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