もうダメかもしれない。突然訪れた最大の危機
2019年9月、私は突然病魔に倒れた。
それは脳動脈乖離という脳の動脈が裂ける病気で、血管に血栓が詰まった訳ではないが、避けた血管は血液を脳に送ることができず、脳梗塞を起こして、左半身麻痺を引き起こした。
何の前兆もなかった。強いていうなら、慢性的な寝不足だったかもしれない。大学病院で繰り返し検査をしたが、原因らしい原因はみつからず、結局は「ストレス」と落ち着いた。
当時の気持ちは、とにかく恐ろしくてたまらなかった。大学病院で教授の回診のたびに、脚首動かしてみて!とか、肩をすくめてみて!と言われても、どちらも全くできず、いったい自分に何が起こったのか、理解できずにいた。結局2週間もの間、集中治療室で過ごした。
一般病室に移ってからも麻痺は変わらず、私は絶望の淵にいた。
しかし、ベッド上安静を解かれたとき、一筋の光が差した。
それは「リハビリ」である。
このリハビリの向こう側に未来があると感じることができた。
私の担当についた理学療法士も作業療法士も若い女性だった。
2人の療法士の先生はとても可愛らしく熱心で、自分のお店のスタッフ達とのやりとりを思い出して、心が和んだ。
2人も私を慕ってくれて、空いた時間にこっそり病室に遊びにきてくれるほど、仲良くなった。
大学病院に4週間入院したのち、私は地元のリハビリ病院に転院した。希望を持って転院したリハビリ病院は、おじいちゃんやおばあちゃんしかおらず、私はまた悲しい気持ちになって、元気がなくなってしまった。夜になると絶望して涙が溢れ、自分は希望も未来も失ってしまったと思っていた。
状況が変わったのは、40代の女性の患者さんと知り合ってからだ。
彼女は脊髄損傷で、歩けなくなっていた。
「私、バツイチで子供が3人いて、家のローンがあるの。絶対直して帰らないといけないから、頑張るんだ!」と彼女は笑って言った。
そうだ!泣いてる場合じゃなかった。私も前を向こう!
そう決意して、そこからは彼女と笑いながら頑張るようになった。競うようにリハビリに集中し、退院する時は、病院を歩いて出ようねと約束した。
担当の療法士の先生が大好きになり、先生に褒められたくてコツコツと努力を重ねた。
何より、毎日笑いながら過ごせたのが大きかったと思う。2ヶ月で車椅子を卒業し、5ヶ月目には杖も卒業。
退院時はちゃんと自分で歩いて、車に乗ることができた。
大きな病気だったが、私は本当にラッキーだったと思う。
まず、リハビリで、身体の状況を改善できる病気であったこと。
大学病院でもリハビリ着病院でも、担当療法士さんが素敵な人たちだったこと。
そして、彼女のような同志に出会えたこと。
後に、辛いリハビリを乗り越えてすごいですねと言っていただくことがよくあったが、辛いことが全くなかったので、笑っていたら、いつのまにか歩けていた、そんなイメージである。
もし、私に優れたものがあるとしたら、それはきっと「楽しむ力」なのだろう。お見舞いに来た友人から、「ねぇ、病人ってもっとシュンとするものじゃないの?」と言われるくらい、私はいつも楽しかった。
今も脚は不自由だ。しかし、杖を持たずにまっすぐ歩ける。
大雨でなければ、傘をさして歩くこともできる。
リハビリの甲斐あって、階段も上り下りできるようになった。
走ることも自転車に乗ることもできないが、右手右足は元気で、車の運転もOKだ。
楽しみながら前に進むと、大きな宝物が手に入る。それを教えてくれた入院生活だったと思う。
私は、このnoteを通して、特別なことが何もなくてもブランディングはできると伝えたいと思っている。
私のリハビリの話は、ブランディングとは全く関係ないように見えて、意外にもつながっている気がする。
何もないからと下を見たら何も生まれない。まずは、自分を愛し、周りを愛し、楽しむ。それが周りに伝播すると、わくわくのオーラが生まれる。わくわくのオーラは、人を魅了し、やがてはブランド力に通じる。
もちろん私自身は決してブランド力の高い人間ではない。
しかし、たった4年前、絶望の淵にいた私が、今こうして笑っていられるのは、入院生活を楽しんだから。これは間違いない。
楽しむとは本当に素晴らしいエネルギーを秘めている。
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