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岡本太郎と縄文土器~捏造された文化の先にある真実

1. 縄文土器とある仮設

岡本太郎が縄文土器にインスパイアされ、「太陽の塔」を生み出したというのは、多くの美術評論家が語る定説だ。しかし、定説とは時に非常に危うい。特に日本では、「権威」が真実を上書きすることが多い。その典型が「ゴッドハンド事件」だ。

ある考古学者が次々と奇跡的に縄文土器を発掘し、その才能に世界が驚嘆した。しかし、調査が進むと、その「奇跡」は彼自身の手による捏造だったことが暴かれた。だが、事件が明るみに出た後も、考古学界全体が沈黙を貫いたのはなぜか?

ゴッドハンド事件は単なる氷山の一角ではないか。初めに権威ある考古学者が縄文土器を「発掘」し、その造形が縄文文化の特徴として定義される。すると、その後の発掘も、同じ特徴を持つ土器が「発見」される。この連鎖が繰り返されることで、縄文文化はある種のフィクションとして積み上がってきた可能性は十分ある。

2. 太郎が信じたものは何か?

では、岡本太郎はこの「演出」に気づいていたのだろうか? おそらく否。それらの造形に原始のエネルギーを見た。それが考古学者の手による創作であった可能性を疑うことはなかっただろう。

もし、縄文土器の一部が学者による「作品」だったとしたら、太郎がインスパイアされたのは縄文文化ではなく、考古学者の感性だったということになる。考古学者たちが思う「縄文らしさ」を岡本太郎が芸術へと昇華させたのだ。

実際、日本の湿度の高い気候を考えれば、低温焼成の縄文土器が数千年も形を保つのは不自然だ。高温焼成の陶器ですら数百年で劣化する。竪穴式住居跡や装飾品が完全な形で発見されるのも妙にできすぎている。もし、これが国策として「日本独自の文化」を確立するために仕組まれたものだったとしたら?

3. 捏造された文化と「太陽の塔」

こうして見ると、「太陽の塔」は、考古学者が生み出した「縄文芸術」の影響を受けた可能性が高い。それが本物であれ捏造であれ、岡本太郎がそこにエネルギーを見出したことに変わりはない。

もし縄文土器が捏造であったと判明したら、社会はその芸術性すら否定するのか? それとも、それはそれで「新たな創造」として受け入れるのか?

捏造か本物かという問題を超えて、「太陽の塔」は、人間が持つ創造の本質を問い続けているのではないか。

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