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許せる人が減った社会のギクシャク感

1. コミュ力時代の暗黙のルール

今の社会では、コミュ力の重要性が異常に高まっている。人に不快な思いをさせないことが至上命題となり、「嫌われないために」慎重に言葉を選び、行動することが求められるようになった。

その結果、みんなが「嫌われることを恐れる」ようになった。嫌われないために、暗黙のルールに従うことが必須になり、いつしかそのルールを守れない人は「ダメな人間」の烙印を押されるようになった。

そして、そういった人は無条件で攻撃される。たとえ悪気がなくても。

2.彼のミスに悪意はあったのか

本来、悪意のないミスは許されるべきだし、それは社会の潤滑油にもなる。
悪意がないと分かれば、そっと優しく教えてあげればいい、という場合が実はかなり多い。

しかし、今の社会は悪意のない「マナー違反」も即、糾弾だ。細かな気配りができない人間もアウトだ。悪気があるかどうかに関係なく、その場その場の暗黙のルールを察知できない人間は吊るしあげられるか、ハブられる。

言うまでもなく、本当に大事なのはルールではなく、相手に悪意があるかどうかだ。迷惑をかけないことより、許すことのほうが大事なはずなのに、社会はどんどん「許せない人」に満ちていく。

許せば何事もなく済んでいくはずが、許せない事で様々な摩擦を生んでいる。それでも、問題の責任は空気や暗黙のルールを読めない側にあるのだろうか?

3. 悪意と不快の境界線はどこにあるのか

実際のところ、「不快に感じること」と「悪意があること」は本来、別の問題だ。不快さとは、聞き手や受け手の価値観や経験によって変わる主観的な感情だが、悪意は意図的に相手を傷つける意思があるかどうかに関わる。

この区別が曖昧になったことで、本来許されるべき言葉や行為までもが糾弾される社会になりつつある。そして、結果として、人々は「本音」を言えなくなり、より不自由な環境に追い込まれていく。

4. 「迷惑をかけない」より「許す」ほうが大切

現代は、発達障害が注目される時代でもある。人の認知の仕方や行動特性は多様であり、一部の人にとっては「普通のこと」が、他の人にとっては困難な場合もある。
そして、発達障害の彼らが「やらかす」時、そこに悪意はない。

そういった事が広く認知される現代において、社会の本来のあり方は「迷惑をかけないこと」より「許すこと」ではないか?

現実は逆になっている。迷惑をかけないようにみんなが必死に気を遣う一方で、「他人を理解し、許すこと」が軽視されている。

5. 自由に発言できる人間の尊敬すべき価値

好き勝手なことを言って、時に人を不快にさせるけれども、他人の迷惑行為には寛容な人間は絶滅危惧種になりつつある。

多くの人は、ただ恐れている。自由に発言すれば叩かれるから、何も言えなくなっている。そして、自分を抑圧している分、他人の小さなミスにも容赦なく攻撃する。

6. 許すことの価値を取り戻すために

完璧な人間などいない。社会をスムーズに回すためには、「迷惑をかけないこと」ではなく「許せる心」を持つことが大切だ。

他人の些細なミスを叩くより、まず「この人に悪意はあったのか?」を考える。それができるだけで、社会のギクシャク感は少しずつ和らいでいくはずだ。

許せる人が増えれば、社会はもっと生きやすくなる。それを思い出す時が、今なのではないか?

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