見出し画像

岡本太郎が考古学者の創作物にインスパイアされた可能性について

岡本太郎が縄文土器にインスパイアされて「太陽の塔」を生み出したというのは、すでに多くの美術評論家が語る定説だ。
しかし、定説というものは時として非常に危うい。
特に日本においては「権威」というものが真実を上書きすることが多い。
例えば、かつて世間を震撼させた「ゴッドハンド事件」だ。
ある考古学者が、まるで魔法でも使ったかのように次々と縄文土器を掘り当てた事件である。調査が進むにつれ、その「奇跡」が彼自身の手による捏造だったことが暴かれた。だが、興味深いのは、その事件が明るみに出たあとも、どこか後ろめたい沈黙が考古学界全体を覆ったことだ。

縄文文化と捏造の連鎖

実際のところ、ゴッドハンドは単なる一例に過ぎないのではないか。初めに権威ある考古学者が縄文土器を「発掘」し、そのユニークなテイストが縄文文化全体の基盤として認識される。すると、その土器の特徴を参考にした新しい「発掘」が続く。ある学者が掘ると土器が出る。その次の学者や発掘チームが、それに似たものを「発見」する。この連鎖が続くうちに、縄文文化そのものがある種のフィクションとして積み上がっていく。考古学者たちが意図的であれ無意識であれ、「縄文らしさ」を演出し続けた結果、文化が捏造された可能性はある。

さらに、日本の湿度の高い気候を考えると、低温で焼かれた縄文土器が数千年にわたって形を保つこと自体、非常に不自然だ。高温で焼かれた陶器ですら数百年で劣化する。ましてや、竪穴式住居跡や装飾品が、当時の状態を保っていること自体がかなり怪しい。これが単なる国策として、あるいは「日本独自の文化」を宣伝する目的で行われていたとしたら、どうだろうか?

岡本太郎と縄文土器の接点

では、岡本太郎はこの文化的な「演出」に気づいていたのだろうか? 
答えは、おそらく「否」だ。
彼は縄文土器にインスパイアされ、その自由で力強い造形に生命の原始的なエネルギーを見た。それが実際には考古学者たちの手による「創作」だった可能性を彼が疑ったとは考えにくい。
太郎が縄文土器を称賛したのは、その形状が持つ原始的な美であり、それはアフリカの民族芸術にインスパイアされたピカソの感性に通じるものがあった。

捏造エネルギーの昇華

しかし、ここで想像力をさらに広げてみよう。
もしも、縄文土器が考古学者の創作物だったとしたら、太郎がインスパイアされたのは「縄文文化」ではなく、学者の感性だったということになる。
そして、太郎の「太陽の塔」は、捏造された縄文土器のエネルギーを引き継ぎ、それをさらに昇華させた産物ということになる。

学者の感性が本物だった可能性

しかし視点を変えれば、考古学者が生み出した縄文土器もまた「芸術作品」として捉えることができる。もし、彼らの捏造だったとしても、岡本太郎のスピリットを揺さぶったのは事実であり、それは純粋な「芸術」として評価されるべきではないだろうか?

もし、近い未来に縄文土器が学者の捏造でした、となった時、社会はその芸術性も否定するのだろうか?・・興味深い。
またその場合、岡本太郎がインスパイアされたのは、学者たちの内なる創造性であり、本能的な欲求や衝動に根ざした何かだ。考古学という枠組みを超えて、彼らが生み出したものは、結局は太郎自身が追求した「生命の歓喜」に通じるものだったのではないか。

太陽の塔の正体

こうして見ると、「太陽の塔」は、ピカソのキュビズムがアフリカ芸術の影響を受けたように、考古学者の「縄文芸術」に影響された可能性が高い。それが本物であれ捏造であれ、そこに込められたエネルギーが真実であれば、太郎がそれを受け取り、新たな形に昇華させたことに変わりはない。捏造された文化の影響下に生まれた作品が「真実の芸術」であることも、十分にあり得るのだ。

岡本太郎が見たのは、縄文土器そのものではなく、それを介して人間が抱える深いエネルギーだったのだろう。
捏造か本物かという問題を超えて、それが私たちに問うのは、表層ではなく根底にある「人間の力」そのものだ。

いいなと思ったら応援しよう!