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一致への道

[エペソ人への手紙 2:13,14,15,16]

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

今日の聖書箇所
エペソ2:11〜22

今日もエペソ書から恵みをいただいていきたいと思います。

エペソ教会の異邦人の聖徒たちはかつては偶像崇拝の中にどっぷりと浸かり、天地の創造主、唯一の神とは全く縁もゆかりもない人たちでした。神の選びの民であるイスラエルからも除外され、律法も知らず、神の契約とも無関係でまさしく神もなく望みもなく、暗闇の中をさまよっていた者たちでした。

しかしそのような者たちがただ主イエス・キリストの十字架の血による贖いによって罪赦され、新しく生まれ変わり、神の子となり、神の国と民となり、神の家族とされたのです。

使徒パウロはまずそのことを思い出しなさいと言うのです。なぜでしょうか?それを思い出す時に初めて謙遜にされるからです。そして謙遜でなければ一致することは不可能だからです。

[エペソ人への手紙 2:11,12]

ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

イエス・キリストの十字架の血がなければ自分は到底救われるはずもない者であり、救いようのない者であった、そのことを心底悟らされていく時に、人は初めて謙遜になり、また自分と同じように救いようのない者たちを赦し、受け入れ、忍耐して、仕えることができるようになっていくのです。その時、初めて一致することが可能になっていくのです。

罪ある人間は皆、自分の義があり、自分の善悪の基準があり、自分の物差しがあり、それを絶対化してしまうのです。それゆえ赦すことも、受け入れることも、仕えることも、譲ることもできないのです。それゆえ人が集まるならそこには葛藤と対立と争いが生まれてくるのであり、それを避けることができません。

しかし神はイエス・キリストの十字架の血によってそんな救いようのない自分、頑ななで高慢で自分の非を認めることができず、どこまでも神に敵対していたその自分のために和解の道を開いてくださった、そのことを悟ることができた時に初めて人は砕かれることができるのです。

十字架の愛、十字架の血だけが自分の義を固く握りしめる私たちを砕くことができ、そのように神に赦されて赦すことができるようになり、そのように神に受け入れられて受け入れることができるようになり、そのように神と愛され一つにされて愛し一つになることを学んでいくのです。

ユダヤ人と異邦人というのは決して交わることも一つになることもできない存在でしたが、イエス・キリストの十字架がその壁を砕いたのです。

そして十字架によって神と和解させられた者たちには同じ神の御霊が与えられます。その御霊によって人は一致することができるようになっていきます。

人は神のかたちに創造された霊的な存在です。霊的な存在とは神との人格的な交わりの中に生きるように創造されたということであり、またお互いが人格的な交わりの中に生きるように創造されたということです。

しかし罪のゆえに神との交わりは断絶し、それに伴いお互いの交わりも断絶してしまったのです。お互いが愛しあうべき、助けあうべき、一致するべきであるとは分かっていてもそれができなくなってしまいました。

一致しようと努力すればするほどお互いが傷つけあうようになってしまい、それゆえ心を閉ざしてしまって表面的で形式的な関係の中で妥協するしかなくなることがどれほど多いことでしょう。

しかしイエス・キリストを通して神と和解させられる時、同じ御霊をいただくならば、あらゆる違いを乗り越えて霊が一つにされていくようになるのです。聖霊という同じ霊が流れて、一つにされていくようになるのです。その時、決して一致できない者たちも一致することができるようになっていくのです。

ユダヤ人と異邦人も決して一致できない者たちでした。この両者にはいくつもの決して乗り越えられない壁があるからです。しかしイエス・キリストによって神と和解させられ同じ御霊をいただいた時にその全ての壁を乗り越えて一致することができるようになっていったのです。

[エペソ人への手紙 2:17,18,19]

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。

私たちもまた身近なところでいろいろな葛藤や争い、分裂と対立に苦しむのではないでしょうか?壁があまりにも厚くでどうしたらよいか分からないことも多くあるのではないでしょうか?

本当に難しい問題であり簡単な解決策はどこにもありません。

私たちにできることはまず私たちがイエス・キリストによる神との和解を受け入れること、そして私たちが神の霊に満たされて私たちの内側から神の愛が流れていくようにすることではないかと思います。私たちが十字架に近づき十字架の血潮を注がれて赦されれば赦されるほど赦すことができるようになり、十字架の愛で愛されれば愛されるほど愛することができるようになるのではないかと思います。

そのように私たちを通して神の霊が働いてくださる時、やがてその人にも神の霊が働いてその人も十字架の前に導かれていくようになり、神と和解し同じ御霊が流れて霊において一つにされていく日が来る、それを夢見て私たちは神の神殿として神の霊に満たされていくために礼拝を捧げ続け、祈り続けていきたいと思います。

今日の祈り
主よ、十字架の愛の中で謙遜な砕かれた心を与えてください。私を御霊の愛によって赦しと和解と一致のために用いてください。

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