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宗教と福音

[コロサイ人への手紙 3:1,2]

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。

今日の聖書箇所
コロサイ3:1〜11

今日もコロサイ書から恵みをいただいていきたいと思います。

3章からはイエス・キリストによって救われた者の具体的な生き方について教えられています。真理をどのように生活に適用していくかということです。

ここではキリストと共に古い人に死んで,キリストと共に新しい人によみがえらされたならば上にあるものを思い,古い人を脱ぎ捨て,新しい人を着続けるようにと勧められています。

[コロサイ人への手紙 3:9,10]

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。

救いというのは改良や改善ではないのです。罪によって腐ったいのちはどんなに改良しても改善しても腐ったままなのです。その腐ったいのちは死んで,新しいキリストのいのちをいただくこと,すなわちイエス・キリスト信じて聖霊によって新しく生まれ変わる,新生することがなければ人は救われません。

それが宗教と福音の違いです。宗教というのはどこまでも人間の改良,改善を目指すものです。ありがたい話でも聞いて,少しでも良いことをしていったら少しは良くなるだろうというのが宗教です。

しかしそんなことをしても人は救われないのです。猿はどこまでいっても猿で,猿をどんなに改良,改善しても人間にはなれません。罪によっていのちが腐敗してしまった人間はどんなに改良,改善してもやはり腐敗しているのです。

イエス・キリストの福音とはそのように罪によって腐敗した人間に新しい神のいのち,キリストの復活のいのちが与えられて,罪によって悪魔の子になっていた人間が神の子に生まれ変わることができるという良き知らせであり,救われるとはそのイエス・キリストの十字架と復活の福音を信じて聖霊をいただき神の子に生まれ変わることなのです。

それがイエス・キリストと人格的に出会うということであり,イエス・キリストの十字架が全人類のための十字架から私のための十字架に変わるということです。

何年も,何十年も教会に通っていながらその新生,回心という体験がない人もいるのです。一生懸命,キリスト教という宗教を信じて良い人になろう,良い行いをしようとしているのですが,福音による救いを体験していないのです。

私たちはまずイエス・キリストの福音によって新しく神の子として生まれなければなりません,十字架のイエス・キリスト,復活のイエス・キリストと人格的に出会って回心しなければなりません。

その時から初めて神を愛する生き方を選び取ることができるようになります。神の子として新しく生まれ変わることがなければ,罪の奴隷であり,どれほど頑張っても罪しか犯すことができない存在だからです。

この場合の罪というのは犯罪のことではなく,神に喜ばれることということであり,新しく生まれ変わることがなければどう転んでも神に喜ばれることを何一つ行うことはできないということです。

もちろん人間的に良いことはできるのですが,それらも結局のところは自分のためであり,神への愛から生まれるものではないからです。神が喜んでくださることはただご自身への愛から生まれる行いなのです。

[コリント人への手紙 第一 13:3]

たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

使徒パウロは私たちの古い人は十字架の上で死んだとか,私たちはキリストと共に十字架につけられたとか,私たちは罪に死んだものであるとか言うのですが,それは罪を犯さず,神を愛する自由が与えられたと言うことです。神を愛する新しいいのちに従うことができる者となったと言うことです。

救われた者は誰しも経験すると思いますが,最初は救われた喜びに満ち溢れてイエス様と聞いただけで涙が溢れるような状態だったのが,だんだんその思いも冷めてきて,救われる前と同じような自分に戻ってしまうのです。

そんな時にやっぱり古い人は死んでしないじゃないかとか自分は罪に死んでいないじゃないかとか思ってしまうのですが,古い人が死んで新しい人になると言うのは自動的にそうなっていくと言うことではないのです。

この地上に生きている限り,私たちは古い人,古い肉から完全に解放されることはありません。それはいつも私たちを誘惑してきます。しかし新しく生まれ変わった人はそれに従わず,聖霊に従い,新しい人として神の子として生きることができるようになったのです。

それが古い人を脱ぎ捨て,新しい人を着ると言うことです。私たち地上の生涯,最後の日までそれをなし続けていかなければならないと言うことです。

古い人とはこの世と罪を愛する生き方です。

[コロサイ人への手紙 3:5]

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。

[コロサイ人への手紙 3:7,8]

あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。

古い人を脱ぎ捨てるとはこれらの思いと行いを殺すことです。しかしどうしたら殺せるのでしょうか?それが悔い改めと聖霊への従順なのです。

救われてもこのような思いを抱き,このようなことをしてしまうことはあるのです。しかしそのたびに悔い改めてそれを脱ぎ捨てるのです。そして内におられる聖霊の助けと導きによって新しい生き方を選び,選び続けるのです。

その時,神の子としての新しい人は成長し,強くなって,ますます新しくされていくことになるのです。

修行や苦行で古い人を殺すことはできません,それでは宗教になってしまいます。ただ聖霊の力と助けを求めて聖霊に従い,聖霊と共に歩むことです。その時,古い人は確実に死んでいきます。

その全ては聖霊が与える思いを受け取ることから始まります。聖霊は上にあるもの,天のもの,永遠に関すること,目に見えない霊的なことを考えるように導かれるのです。反対に悪魔悪霊は地上のこと,一時的で消え去ること,目に見える物質的なことばかりを考えさせ,それを追い求めさせるのです。

救われた人でもテレビばかりを見てテレビのことで頭がいっぱいになってしまっているなら決して聖霊に従うことはできないのです。

それゆえ聖霊はまず神の御言葉を聞くこと,神の御言葉を読むこと,神の御言葉を黙想し,考えることを導かれるのです。そこから私たちの思いと考えは聖霊によって変えられ初め,そこから古い人を脱ぎ捨て,新しい人を着ることができるようになり,神を愛し,神が喜ばれることを選び取ることができるようになるのです。

今日の祈り
主よ,私の思いと考えをあなたの御言葉で満たしてください。聖霊の力で肉を打ち砕き,新しくされ続ける恵みを与えてください。

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