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救われた証拠
[ゼパニヤ書 3:17]
あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。
今日の聖書箇所
ゼパニヤ3:9〜20
今日もゼパニヤ書から恵みをいただいていきたいと思います。
ゼパニヤ書の最後です。
ゼパニヤはユダの民と周辺諸国の罪に対する神の厳しい裁きを宣告し、悔い改めを迫りました。そして最後には神の主権と一方的な恵みによる救いが成し遂げられることを宣言するのです。
このようなパターンは旧約聖書の預言書に共通しています。神の厳しい裁き、懲らしめには明確な一つの目的があるのです。それは神の民を救い、癒し、回復していくということなのです。
そのためには罪が取り除かれなければならず、汚れが清められなければならず、不法は取り除かれなければならないのです。
そのために裁きがあり、懲らしめがあり、神の取り扱いがあるのです。私たちの人生にも、また信仰生活にも神の懲らしめがあり、取り扱いがあります。それだけを考えるなら、それは苦しくて辛く嫌なものでしかありません。そんなことをする神が恨めしく思ってしまうこともあるでしょう。
しかし神の最終目的はご自分の民をただ苦しめ悩ますことではなく、救い、癒し、回復することなのです。それを知っているなら、それを信じるなら懲らしめと取り扱いの中でも私たちは忍耐を持って主の救いを待ち望み、やがて与えられる救いを喜び歌うことができるようになっていきます。
[ゼパニヤ書 3:14]
娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
それでは懲らしめを通して変えられ、恵みによって救われた神の民とはどのような民なのでしょうか?
第一にそれは唇が変えられ清められた民です。
[ゼパニヤ書 3:9]
そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。彼らはみな主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。
罪の中にある時には私たちの唇は不平不満や文句、怒り、恨み、嘆き、中傷、批判などしか語ることができません。どんなに感謝すべき状況でも感謝もなく、神への賛美はまず出てこないのです。
しかし懲らしめを通して砕かれ、恵みによって救われた者の唇は感謝と賛美を捧げるようになるのです。また自分と聞く人を殺す言葉ではなく、自分と聞く人に恵みを与えるいのちの言葉を語るようになるのです。
どんな時も唇に感謝と賛美があるなら、それが救われた者の証拠であるといことです。
第二にそれはへりくだった謙遜な民です。
[ゼパニヤ書 3:11,12]
その日、あなたはわたしに背いて行ったすべての行いのことで、恥を見ることはない。そのとき、わたしがあなたのただ中から、おごり高ぶる者どもを取り除くからだ。あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない。わたしはあなたのただ中に、へりくだった、貧しい民を残す。彼らは主の名に身を避ける。
罪の中にあるとは主を求めないということであり、主により頼まないということなのです。自分で自分を救うことができるという自己信頼こそ罪の本質であり、それが高慢であるということです。
懲らしめを通して砕かれ、自分の限界と弱さを知った者はあらゆることで主の御名を呼び求め、主により頼むようになるのです。それが謙遜ということであり、そのように謙遜さこそ救われた証拠なのです。
第三にそれは礼拝する民です。
[ゼパニヤ書 3:18,19]
例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたから離れていた。そしりがシオンへの重荷であった。見よ。わたしはそのとき、あなたを苦しめたすべての者を罰する。わたしは足を引きずる者を救い、散らされた者を集め、彼らの恥を全地で栄誉ある名に変える。
神の裁きによってバビロンに捕囚された民は神への礼拝を失い、多くの国々と民族から蔑まれ、そしられていたのです。それを通して礼拝できることがいかに大きな恵みであり祝福であったかを骨身にしみて悟ることになるのです。
バビロン捕囚から解放されたユダの民がまず取り組んだことは神殿の再建であり礼拝の回復でした。
恵みによって救われた者は必ず共に集まり礼拝するようになるのです。主の宮。主の教会を愛するようになるのです。礼拝こそが祝福の源であり、主の宮、教会こそが自分たちを守ることを悟るようになるからです。
真実なる礼拝と主の宮、教会への愛と献身、それが救われた者の証拠なのです。
そのような民を見て主はこう言われるのです。
[ゼパニヤ書 3:17]
「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。
主イエス・キリストの恵みによって救われた者は救われた者らしく賛美と感謝の唇の果実を捧げ、謙遜に主により頼み、礼拝と主の教会を何よりも大切にするようになるのです。
私たちがイエス・キリストを信じて救われていると言うなら、そのような救われた証拠があるかを点検していきたいものです。