見出し画像

愛には理由はありません

[ヨハネの手紙 第一 4:9,10]

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

今日の聖書箇所
Iヨハネ4.7〜15

今日はクリスマスQTでヨハネの手紙から恵みをいただいていきたいと思います。

使徒ヨハネは神がひとり子イエス・キリストを遣わしてくださっていのちを得させてくださったと言っています。

聖書協会共同訳では「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって私たちが生きるようになるためです」と訳しています。

ひとり子イエス・キリストによって生きるようになるとは肉体的に生きるということではありません。霊的に死んでいた者が霊的に生きるようになったということです。

それでは霊的に生きるとはどのようなことでしょうか?それは神との霊的な交わりがあるということであり、神を愛する者となったということです。

[ヨハネの手紙 第一 4:7]

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

なぜ互いに愛し合うのでしょうか?そうするのが良いことだからとかそうすることが義務だからとかそうするなら何か報いがあるからとか、それではもう愛ではなくなるのです。

愛とはそうしないではいられないものだからです。愛に理由があるならそれはもう愛ではなくなっているのです。

神の愛とはまさに理由のない愛でした。私たちは神などいないと神を無視し、神を否定し、たとえ神がいたとしても自分とは何の関係もないと自分勝手に生きていた者たちだったのです。

神にいのちも万物も与えられていながら、その神と全く無関係に神に敵対して生きていた者だったのですが、その私たちのために神がひとり子イエス・キリストを遣わし、十字架で神の敵であった私たちのために身代わりに死なせることまでして私たちを罪から死から呪いから、地獄の滅びから救ってくださったのです。

神の私たちに対する愛は全く理由のない愛だったのです。それは絶対に愛することなどできない者を愛する愛、敵を愛する愛でした。

イエス・キリストを通して罪から救われた者はその神の愛といういのちが注がれるのです。

[ローマ人への手紙 5:5]

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

私たちが罪の中にいるとは愛さないということなのです。いや愛せないということです。罪の中にいる時にはどう転んでも神を愛することも、また隣人を愛することもできないのです。ただ自分だけを愛しているだけです。

しかしイエス・キリストを通して救われた者は愛するのです。いや愛さないではいられなくなるのです。神の愛といういのちが注がれるので、神を愛さないではいられなくなり、隣人の魂も愛さないではいられなくなるのです。

そこにはもう理由などありません。理由があるとするなら愛さないなら死んでしまうので愛するのです。

そのような愛という衝動によって動かされているならそれが救われた者であり、神のいのちが与えられた者であり、霊的に生きている者であるということです。

神の愛といういのちによって生かされた者は神を礼拝すること、祈ること、御言葉を聞くこと、伝道すること、仕えること、愛することなどについて理由など必要ではなくなるのです。

そうしないではいられないのでそうするだけなのです。理由があるとすれば霊的に生きたい、死にたくないのでそうするということだけなのです。

しかしそのような神の愛といういのちが働いていないと、イエス・キリストを信じて救われたと言っても、全てが嫌々しなければならない宗教となってしまうのです。そうしなければ天国に行けないからとか、そうしなければご利益をいただけないからとか、そういう宗教的な理由をつけて頑張ってそうするしかなくなってしまうのです。

私たちの霊的な生活、信仰生活が神の愛といういのちの現れとなっているなら、そこにはいつも喜びがあり、そこには自由があり、それはいつも自発的なものになっていくのです。

しかしイエス。キリストを信じていると言っても神の愛といういのちの働きがなければそれは宗教的な義務感による頑張り、律法になってしまうしかなくなるのです。それではやがて疲れて倒れてしまうのです。

イエス・キリストは私たちを律法に熱心な宗教人にするために来られたのではなく、神の愛といういのちを与え、神の子としての満ち満ちた姿にまで成長させ豊かな実を結ばせるために来られたのです。

今日の祈り
主よ、愛さないという罪の中から愛するといういのちの中へと救ってくださったことを感謝します。あなたの愛といういのちが日々私の中に現れていくように導いてください。

いいなと思ったら応援しよう!