神への恐れ
[ピリピ人への手紙 2:12]
こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
今日の聖書箇所
ピリピ2:12〜18
今日もピリピ人への手紙から恵みをいただいていきましょう。
パウロは救われた時から自分の宣教を物心両面で支え、パウロの喜びであったピリピの聖徒たちに「あなたがたは十分にやっている。あなたがたはもう救われているから大丈夫だ。安心しなさい」などとは言っていないのです。
そうではなく反対にそのようなピリピの聖徒たちに「恐れおののいて救いの達成に努めなさい。ますます従順な者となりなさい」と語っているのです。
「もう洗礼を受けたから大丈夫」とか「一度信仰告白したから大丈夫」とか「神は愛だからありのままで大丈夫」とかそういう人間中心的で自己中心的な考えがいかに的外れで、恐ろしい惑わしであるかを気づくべきではないでしょうか?
ある方からこんな話を聞いたことがあります。
その教会で洗礼を受けた方が洗礼を受けた翌週から教会に来なくなってしまったというのです。その理由は自分はもう洗礼を受けて天国行きの切符を受け取ったから教会には行かなくても大丈夫だからというのが理由だったというのです。
信じられない話ですが、そんなふうに福音を、恵みによる救いを誤解、曲解する人もいるということです。
それはせっかく生まれた赤ちゃんが自分から呼吸もやめ、ミルクを飲むのもやめるのと同じことではないでしょうか?そんなことをすればどうなるでしょう?死ぬしかありません。
生まれた赤ちゃんは絶えることなく呼吸し、十分にミルクを飲んで、やがて堅い食物も食べれるようになって、運動もできるようになってどこまでも成長していくべきです。同じように神の子として生まれた者も絶えず祈り、しっかりと御言葉の乳を飲み、成長して主のために十分に働くことができるようになるべきですし、そうならなくてはなりません。
洗礼を受けたから、一度信仰告白したから、救われているなどと言うことはどれほど非聖書的なことでしょう。
信仰のみ、恵みのみによる救いを誰よりも強調した使徒パウロが恐れおののいて救いの達成に努めなさいと言っているのです。
と言うことは本当に救われた者は「私は救われているから大丈夫」「神は愛だから大丈夫」などとは決して言わないと言うことです。本当に救われた者は救いの達成にどこまでも努めるようになると言うことです。
それはある意味で当然のことです。赤ちゃんは生まれたらもうこれでいいやなどとは決して思いません。赤ちゃんに成長しなければならないよなどど言わなくても赤ちゃんは成長しますし、成長したいのです。本能的に成長するのです。
本当に救われた者にはもっと成長したい、もっとイエス様に似た者となり、もっと神に喜ばれたいという神の子としての本能的な願いが湧き上がるはずなのです。パウロはそのことをこのように言っています。
[ピリピ人への手紙 2:13]
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
この御言葉はどんな夢やビジョンでも神が達成させてくださるなどと曲解して使われることが多いのですが、そんな事を言っているのではありません。どうして神が肉的な夢やビジョンの達成を助けてくれることなどあるでしょうか?
そうではなく文脈から見れば明らかに神はイエス様に似た者となり、もっと神に喜ばれる者となり、もっと神のために実を結ぶ者となりたいと言う聖なる願いを起こし、聖なる志を立てさせ、それを実現させてくださると言っているのです。
それが救われた者のしるしであると言うことです。
そしてパウロは恐れおののいてと言っています。本当に救われた者には神への恐れがあると言うことです。
決して救いを失ってはいけない、信仰の失格者になってはいけない、恵みを無駄に受けてはいけない、天の報いを失ってはいけないと言うことであり、そのためには
聖なる緊張感を持ちなさいと言うことです。また本当に救われた者にはそれがあるはずであると言うことです。
その神への恐れはどこから生まれるのでしょう?それはいのちの御言葉から生まれるのです。
[ピリピ人への手紙 2:15,16]
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
いのちの御言葉によっていつも照らされ、教えられ、戒められ、矯正され、訓練され、整えられていくことで、神への恐れが生まれ、神への恐れを維持できるのです。別な言葉で言えば、御言葉によっていつも悔い改めへと導かれいる人が神を恐れている人であり、そのような人が傷のない神の子として成長し続けることができるのです。
救われた者は当然、救いの達成に努めるようになるはずですし、そうならなければあまりにも不自然なのです。それは成長を求めるいのちの本能であり、神の子としての生存の本能だからです。
救われた神の子は天の御国に向かって日々前進していくべきです。神の子のいのちはこの地上の生涯の最後の日まで成長していくべきです。しかし、現状維持でいいと思った瞬間から後退し始め、いのちは衰えていき始めます。
救われた者たちに対して神は愛だからそのままで大丈夫、ありのままで大丈夫、救われているから大丈夫、もう頑張らなくて大丈夫と言うこと、それは与えられたいのちを盗み、殺し、滅ぼす悪魔の恐ろしい惑わしです。神は愛だからこそ救いの達成に努めなさいと語ってくださっているのです。そのいのちの御言葉をしっかりと握って日々祈って聖霊様の助けを受けて満ち満ちた神の子の姿にまで成長させていただきましょう。
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