出会わなければならない友
[サムエル記 第一 20:4]
ヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」
今日の聖書箇所
Iサム20:1〜11
今日もサムエル記を通して恵みをいただいていきましょう。
ダビデはサムエルの助けによってサウルから守られ,ラマのナヨテから逃げることに成功しました。
そしてダビデにとって無二の親友であるヨナタンに会いにいきます。そこでダビデはヨナタンに自分の苦しみを全て打ち明けます。
ヨナタンはその全てを受け止め,自分にできることは何でもすると申し出るのです。心身共に追い詰められていたダビデは親友のヨナタンの存在によってどれほど慰められ,励まされたことでしょう。
いのちの危険が迫っている中で,親友ヨナタンの存在はダビデを心身共に救い,守るものとなったのです。そんな親友が自分を殺そうとしているサウルの息子であるとは何という神の摂理でしょう。
ダビデの人生は真の友であるヨナタンなしには考えることができません。ダビデにとって真の友であるヨナタンは神からの最高の祝福の一つだったと思います。
私たちの人生もまたさまざまな出会いによって決まっていきます。今,私たちがいるところは今までの出会いの積み重ねでもあるのです。
親との出会い,家族との出会い,伴侶との出会い,友人との出会い,それらが私たちの人生を作ってきたのです。その中には良い影響を与えた出会いもあったでしょうし,残念ですが悪い影響を与えた出会いもあったでしょう。
それゆえ私たちは良き出会いという祝福を祈り求めていかなければなりません。また特に私たち委ねられている次世代に良き出会いがあるように祈ることはどれほど大切でしょう。このような御言葉があります。
[箴言 17:17]
友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。
[箴言 27:17]
鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。
良き友人との出会いは人の生涯の宝となります。良き友人とはここにあるようにどんな時にも愛する存在であり,成長させてくれる存在なのです。
ダビデにとってヨナタンはまさにそのような存在でした。そのような友人が与えられている人は本当に恵まれている人です。しかし中には自分にはそんな友人はいないと言われる方もおられるでしょう。
しかし私たちにはどんな時も真の友となってくださるお方がいるのです。どんな時も変わることなく愛してくれ,私たちのためにどんなことでもしてくれる友,私たちはどうしてもそのお方と出会わなければなりません。それこそがイエス・キリストです。
真の友なるイエス・キリストは罪のゆえに悪魔の奴隷となり永遠の地獄に行くしかなかった私たちのために,私が死んでもあなたは生きるべきだと,自ら進んで十字架にかかり,刺し通され,砕かれ,懲らしめられ,呪われた者となって十字架で血を流して死んでくださることまでしてくださったのです。
そしてどんな時にも私たちを見捨てることもなく,見放すこともないと約束してくださり,かたときも離れず私たちと共にいてくださるのです。
私たちは年齢を重ねていくと,親しい友とも別れていかなければならなくなります。しかし真の友であるイエス・キリストはこの地上の生涯の最後の日まで決して私たちから離れることはなく,そして私たちを永遠の天の御国にまで伴ってくださるお方なのです。
あなたはこのお方を真の友としておられるでしょうか?このお方の御言葉を心にとめ,このお方を友としてお迎えし,全ての重荷と嘆きを打ち明けていきたいものです。
[ヨハネの福音書 15:15]
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。