罪の悲惨さと恵みの栄光
[エペソ人への手紙 2:4,5,6]
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
今日の聖書箇所
エペソ2:1〜10
今日もエペソ書から恵みをいただいていきたいと思います。
劇的ビフォーアフターという番組がありました😅イエス・キリストを信じて救われるということはまさに劇的な変化が起こることであり、天と地がひっくり変えるような大逆転が起こることなのです。
まずパウロは救われる前の悲惨な状態を明らかにします。
[エペソ人への手紙 2:1,2,3]
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
イエス・キリストを知らない時、私たちは罪の中に死んでいました。いのちの源である創造主との関係が完全に断絶し、霊的にも肉体的にも腐敗し死ぬべき存在であったということです。
それゆえこの世の支配者である空中の権威を持つ支配者、悪魔によって支配され、神に対してはどこまでも不従順で、腐敗した罪の性質から生まれる肉の欲に従うしかない罪の奴隷であり、その罪のゆえに生まれながら神の御怒りを受けて永遠に滅ぼされるべき悪魔の子であったというのです。生まれながらの罪のゆえに永遠に地獄の刑罰を避けることのできない呪われた者であったというのです。
創造主と断絶し、イエス・キリストによる救いを知らない人生は暗闇の中に生まれ、暗闇の中でもがき苦しみ、暗闇の中で滅びていくしかないということです。なぜ生まれたのかも分からず、何のために生きるかも分からず、なぜ苦しむのかも分からず、死んでどうなるかも分からないまま死んでいくしかない人生になるのです。
パウロはこのように罪の中にあることの悲惨さをこれでもかというほど明らかにするのです。そしてそのような悲惨で霊的に全く無力、無知な者であった者たちに注がれた神の恵みの大きさを悟らせるためです。
そのような者たちが主イエス・キリストの福音を信じて救われるなら、死んでいた霊がキリストともに生き返り、救われた者たちはキリストと共に天上に座する者となりキリストと共に目に見えない霊的な世界と目に見える物質世界を治める神の子とされたと言うのです。それはこの天地を創造された神の最初のご計画でした。
[創世記 1:27,28]
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
イエス・キリストによって罪から救われた者は神の王子、神の王女となって神と共にこの被造世界を治め、支配していくのであり、それは神に創造された本来の人間の姿へと回復されると言うことです。
そしてその救いは私たち人間の行いにはよらず、全ては神の一方的な恵みによる賜物であり、その最大の恵みの賜物こそイエス・キリストを信じる信仰だと言うのです。
[エペソ人への手紙 2:8,9]
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは罪による腐敗のゆえに霊的に全く無力になり自分では神を求めることも、神を知ることも、神を信じることも、神の喜ばれることを行うことも何一つできない存在だったのです。イエス・キリストの福音を聞いてもそれを理解することも、信じることも何もできない者たちだったのです。
しかし今、イエス・キリストを信じることができているなら、それはただ神の恵みによることであり、聖霊が働いてくださって霊が生き返ると言う新生という恵みが注がれたのでそれができているということです。
全ては私たちの何か、私たちの行い、功績、努力、修行、人格、性格などによるのではなく、ただ一方的な神の恵みによることだったのです。この驚くべき救いの恵みを悟る時、私たちは恐れおののくしかなくなります。そしてただ永遠に感謝と賛美を主に捧げるようになり、このような恵みを与えてくださった主を愛し、隣人を愛し、特にこのような恵みをまだ知らない人々にこのイエス・キリストの恵みの福音を伝えて生きるようになるのです。それが恵みの目的だからです。
[エペソ人への手紙 2:10]
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
私たちは恵みに慣れてしまう危険性がいつもあります。そしてそれは本当に恐ろしいことで、恵みに慣れて当たり前になってしまうと恵みから落ちてしまうのです。
それゆえいつも救われる前のあまりにも悲惨な状態と救いの恵みの偉大さを絶えず思い起こすことが必要不可欠なのです。そのためには毎日、この恵みの福音を聞かなければならず、この恵みの福音をまず自分に語り、そして人々に伝えていくことが必要なのです。
その時、毎日のように恵みに福音に対する感謝と感激が湧き上がり、その恵みにふさわしく応答していく神の作品としての生き方ができるようになるのです。
イエス・キリストによって救われた者たちはかつてのイスラエルの失敗と悲惨な結果を決して繰り返さないように肝に銘じる必要があります。
[申命記 32:15,16,17,18]
エシュルンは肥え太ったとき、足で蹴った。あなたは肥え太り、頑丈でつややかになり、自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。彼らは異なる神々で主のねたみを引き起こし、忌み嫌うべきもので、主の怒りを燃えさせた。彼らは、神ではない悪霊どもにいけにえを献げた。彼らの知らなかった神々に、近ごろ出て来た新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々に。あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。
今日の祈り
主よ、どんな悲惨な状態から救われたのか、そして救いの恵みがどれほど豊かで深く完全なものなのかをいつも思い出すことができるように助けてください。
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