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この世の栄光と神の栄光

[エペソ人への手紙 3:13]

ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。

今日の聖書箇所
エペソ3:1〜13

今日もエペソ書から恵みをいただいていきましょう。

パウロはキリストによって与えられる恵みの栄光について続けて語ります。

異邦人は律法もなく、神とイスラエルとの契約とは無関係で、偶像崇拝にどっぷりと浸かっており、神もなく望みもない人たちでした。アブラハムから始まる神の契約の民であったユダヤ人たちからすれば、そのような異邦人は救われる可能性はどこにもなく、救いようのない人々としか見えなかったでしょう。

しかし神はイエス・キリストを通してそのような異邦人に恵みを注ぎ、そのような異邦人が福音によってユダヤ人と共に神の国を相続する相続人となり、ユダヤ人と共にキリストのからだである教会に連なり、ユダヤ人と共に神の契約にあずかる者となったのです。これがキリストの奥義でした。奥義とは隠されていた神のご計画ということです。

[エペソ人への手紙 3:5,6]

この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。
それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

恵みとは値しない者に与えられる神の無償の好意であり賜物、贈り物という意味ですが、異邦人が福音によって救われ神の民とされるということはまさに恵みの中の恵み、あり得ない恵みだったのです。

そしてパウロがその福音に仕える者となったこともまた恵みの中の恵みであり、あり得ない恵みでした。なぜならパウロは教会の迫害者、イエス・キリストの福音に対する最大の敵対者だったからです。

そのようなパウロに主は特別な恵みを注がれてパウロを救い、さらには福音に仕える使徒として召されたのでした。

[エペソ人への手紙 3:7,8,9]

私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。

このような神の特別な恵みを受けたパウロは福音のために苦しむことさえ喜ぶことができるようになりました。そのあまりにも大きな恵みに対して自分の命を差し出しても何も惜しくはなくなったのです。

神の恵みを本当に悟ることができた者はそれに対して必ず応答するようになり、恵みにふさわしい生き方をするように変えられていくのです。その応答は感謝であり、献身であり、愛なのです。

神の恵みは簡単に与えられるものではないからです。そこには信じられない代価が支払われているからです。異邦人が無代価で恵みを受け、パウロが無代価で恵みを受けることができたのは罪なきイエス・キリストの十字架の血という無限の価値を持つ代価が支払われたゆえです。

その恵みのために代価を理解できる時、恵みのために苦しむこともまた喜びとなり、感謝となるのです。なぜなら愛するならそのお方のために苦しむこともむしろ喜びとなるからです。

栄光とはどのようなことでしょうか?私たちは栄光と言うと何か目に見える成功を収めることとか、この世的に繁栄することであるかのように思ってしまいますが、聖書で言う栄光とはそのようなものではないのです。

聖書が言う栄光とは十字架を負うことであり、神を真実に愛することができることが栄光なのです。なぜならそのような神への愛だけが永遠に残るものとなるからです。

[ヨハネの福音書 12:23,24,25]

すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」

神を真実に愛するようになるなら、その人はそれゆえに多くの苦しみを味わうでしょう。神を知らず神を愛することなく永遠の滅びに向かっている人たちを見て心痛まないではいられなくなり、神を愛していたのに悪魔に惑わされ神から離れていく人たちを見て心痛まないではいられなくなり、自分の周りにいる神の愛を知らない人たちを見て心痛まないではいられなくなるからです。

それらの人たちが神の愛を知り、神を愛するようになるためにはどんなことでもしようと思うようになり、そのために苦しむことも何でもなくなってくるのです。そのような苦しみは必ず重い永遠の栄光をもたらすことを知っているので、苦しみの中でも愛の喜びに満ち溢れるようになるのです。

[コリント人への手紙 第二 4:16,17,18]

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

パウロはキリストの福音のゆえに囚人となって愛のゆえに苦しみを味わっているのですが、その苦しみはそのままエペソの聖徒たちの栄光であると言うのです。パウロは獄中で主のために苦しむことを通してますます知恵と啓示が満ち溢れて、それがエペソの聖徒たちの霊的信仰的な成長と祝福をもたらすことになるからです。

私たちがイエス・キリストによる神の恵みを本当に悟るようになるなら、そのために払われた十字架の血という代価の大きさを知るなら、その恵みに応答しないではいられなくなるはずです。神を愛さないではいられなくなるはずです。

そのように恵みに真実に応答し、神を愛するように変えられていった者たちが永遠のいのちを受けた者なのです。なぜなら永遠のいのちとは神を愛するいのちだからです。

しかし恵みの福音を信じて救われたと言っていてもこれだけやっていれば大丈夫だろうとか、救いは恵みだから神は愛だから何をしたって大丈夫とか、私がこれだけやったのに神は何にもしてくれないとか、そんな思いが少しでもあるならその人は恵みの福音も神の愛もまだ何も知ってはいないのです。恵みの福音をご利益信仰と同じもののように惑わされているのです。

福音のために苦しむことも喜びとなっているなら、その人こそ神を愛するいのち、永遠のいのちが与えられている者であり、その人こそ神の栄光に満たされた人なのです。

今日の祈り
主よ、あなたの十字架の前にしっかりと立たせてください。十字架の栄光を知る恵みを与えてください。

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