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使命を果たす覚悟と力

[列王記 第二 2:8,9,10]

エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」

今日の聖書箇所
II列王2:1〜14

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

モーセに並ぶ旧約の大預言者であったエリヤも遂にこの地上の生涯の終わりの時を迎えます。しかしそれは普通の終わり方ではありませんでした。

エリヤは肉体の死を迎えることなく、天に昇るという特別な終わり方を迎えるのです。このように肉体の死を経験しない者たちが旧約聖書に二人だけ登場します。一人はここに出てくるエリヤであり、もう一人は創世記に出てくるエノクです。

[創世記 5:21,22,23,24]

エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。エノクの全生涯は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

これらの出来事はいったい何を意味しているのでしょうか?解釈がとても難しいところですが、やがて起こるイエス・キリストの復活、そしてイエス・キリストを信じて救われた者たちに起こってくる復活という出来事の予表であると解釈することができるのです。

私たちは人間が年老いて死んでいくのは当たり前のことだと考えてしまうのですが、聖書的にはそうではないからです。聖書的に見るなら人間の死というのは罪の結果の呪いであり、それは本来あるべきことではない異常なことなのです。

それゆえ罪から救われた者たちは罪の結果である死の呪いからも解放され、永遠のいのちと死ぬことのない新しいからだ、復活のからだが与えられなければならないのです。

それゆえイエス・キリストが十字架で罪のために死ぬだけでは罪からの救いは成し遂げられたことにはならず、イエス・キリストが復活されることで初めて罪の力が完全に打ち砕かれたことが証明されることになるのです。

罪から救われるとは罪の結果である死の呪いからも救われることであり、その罪と死をもたらした悪魔からも救われることだからです。それゆえイエス・キリストは必ず復活しなければならず、イエス・キリストを信じて救われた者たちも必ず復活させられなければならないのです。

エリヤとエノクが死を見ることなく天に上げられたということはやがて来るメシアが死の力に打ち勝って復活することを予め示す出来事でもありました。エリヤの昇天はイエス様の復活と昇天を預言する出来事でもあったのです。

そしてそれはまたメシアであるイエス様を信じて罪から救われた者たちが復活することを預言する出来事でもありました。もし私たちがこの地上で生きている間にイエス・キリストが再臨されるならば、その時、私たちも天に引き上げられ、一瞬のうちに復活のからだに変えられていくことになるからです。これを携挙と言います。

[テサロニケ人への手紙 第一 4:15,16,17]

私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

エリヤの一番弟子であったエリシャはエリヤとの別れの時が近いことを知って最後までエリヤに付き従い、エリヤのもとを離れようとしません。エリヤは自分についてこなくてもいい、とどまっているようにと言うのですが、エリシャにどこまでもエリヤについていくのです。

[列王記 第二 2:2]

エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言った。しかしエリシャは言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。

エリヤはエリシャに3度もとどまるように命じます。これはエリシャの信仰と覚悟を試していると思われます。エリヤの後継者になるということは簡単なことではありません。エリヤの生涯を見れば分かるように、そこには激しい戦いと困難、迫害と試練が待ち受けていることが予想されるからです。

エリヤはエリシャにそれでも自分の後継者になりたいと願うのか?とその覚悟と信仰を確かめているのです。そしてエリシャにはそのような覚悟と信仰があっただけではなく、そのために必要なものも知っていました。それが聖霊の力と油注ぎでした。どうしてもエリヤが地上からいなくなる前にそれが与えられたいとエリシャはどこまでもエリヤについていくのです。

[列王記 第二 2:9,10]

渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」

エリヤは聖霊の力と油注ぎは自分が与えることができるものではない、それは主なる神だけが与えることができるものなのだと語るのです。二倍の分とはエリシャが自分の霊的な無力を知って自分はとてもエリヤの後継者になどなれないと知っていたので特に豊かな霊の力を求めたということであり、二倍の祝福とは長子が受け継ぐ祝福だったので、霊的な長子としての祝福を求めたということでもあります。

いずれにしてもエリシャがどれほど切実に霊的な力と霊的な祝福を求めていたかが分かります。そのような切実な願いに主なる神が答えてくださりエリシャはエリヤに与えられていた以上の油注ぎが与えられるのです。

私たちにもそれぞれこの地上で神の国の福音を伝え神の国を拡大していくという使命が与えられています。その使命を果たすことは簡単なことではありません。そこにはやはり十字架を負ってもそれを成し遂げていこうという覚悟と信仰が求められます。

そしてまたどんなに覚悟と信仰があってもそれで主の働きができるわけではありません。主の働きを成していくためには聖霊の力と油注ぎが必要不可欠だからです。そしてその聖霊の力と油注ぎはどこまでもそれを求める者、求め続ける者に与えられていくのです。エリシャにはそのような飢え渇きと熱い願いがあったのです。

楽な人生などどこにもありません。この罪が支配するこの世で生きる私たちの人生は戦いの人生となっていきます。そうであるならその戦いから逃げるのではなくその中で使命を果たしていく者となりたいものです。そして弱い私たちには使命を果たす力がないので絶えず祈って聖霊の力と油注ぎを受けて使命を果たし、人生の戦いに一つ一つ勝利して最後に与えられる復活の勝利へと向かっていきたいと思います。

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