避け所に逃げ込む
[詩篇 36:7,8,9]
神よ あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。人の子らは 御翼の陰に身を避けます。彼らは あなたの家の豊かさに満たされあなたは 楽しみの流れで潤してくださいます。いのちの泉はあなたとともにありあなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。
今日の聖書箇所
詩篇36:1〜12
ハレルヤ😇
本格的な冬が到来しようとしています。今日も一日お疲れさまでした💕
今日は詩篇36篇から恵みをいただいていきましょう。
私たちの人生を大きく左右するものの一つに誰の言葉を聞くかということはあります。
詩篇36篇は悪しき者と義なる者、闇の子と光の子の違いを明確に教えています。どちらの言葉を聞くかで人生は一変します。
詩人の近くにも悪しき者がいました。聖書で悪しき者と言う時、それは倫理道徳的な意味ではありません。神を恐れない者が悪しき者なのです。神を恐れないとはどのようなことでしょうか?それは神の義なる裁きを全く意識しないで生きると言うことです。
神はいない、神の裁きなどないと思って生きる者、このような者が悪しき者なのです。そのような者は神など信じないと言う事を心に固く決めており、どんなに悪しき事をしても全く心が痛むこともありません。良心が麻痺しており、霊的に完全に無感覚になっているのです。
今の時代の特徴は神の愛だけを強調し、神の義と聖さを無視する事です。それゆえ神の裁き、地獄についても全く語られることがなくなっています。しかし聖書を信じる者は神の愛と義を両方共に信じる必要があります。もし私たちが神を信じる、イエスを信じる、聖書を信じると言いながら、地獄については信じないと言うならそれは神を恐れない悪しき者と同じ者になってしまう可能性があります。神を恐れる者とは地獄の裁きを健全に恐れる心があると言うことです。
悪しき者の言葉には悪しき霊の力が溢れています。それを聞いた者の心の奥にまで届き、信仰を根こそぎ破壊し、心を凍らせるような力があるのです。
[詩篇 36:1]
私の心の奥にまで悪しき者の背きのことばが届く。彼の目の前には神に対する恐れがない。
そのような者たちの言葉は信仰者の霊を深く傷つけるのです。それゆえそのような者の言葉を聞いてはならず、そのような者からは離れなければなりません。それを聞き続けているとこちらがおかしくなっていくからです。
しかしこの世に生きている以上、そのような悪しき者にも出会いますし、悪しき者の言葉も全く聞かないわけにはいきません。それゆえ詩人は恵みの主に身を避けると言うのです。
悪しき者の悪意に満ちた言葉、不信仰な言葉、怒りや憎しみ、敵意に満ちた言葉を聞いてしまうとそれは毒のついた矢のように私たちの心に刺さります。その毒矢を抜いて霊の傷を癒していかなければ、私たちの霊は確実に弱ります。主に身を避ける時に、主の臨在の中で、それは引き抜かれ、傷は癒やされていきます。
それゆえこの詩人は悪しき者から主に目を向け、その恵みと真実をほめたたえるのです。主を賛美し、礼拝する時、そこには主の臨在が満ち、私たちが主の臨在を避け所とする時、霊に刺さっている毒矢は抜かれ、傷は癒やされていきます。
主の臨在、主との交わりこそ私たちの心の深みにいのちの泉を湧き上がらせ、主の臨在の光こそいのちの光となるのです。
この世に生きているだけで、この世の声を聞いているだけで私たちの霊は傷つき、弱り、汚れてしまいます。だんだん良心は麻痺し、霊は無感覚になっていきます。
それゆえ私たちは主の臨在に逃げ込み、毒矢を抜いて癒していただき、そのいのちの御言葉を聞かなければなりません。信仰者の交わりの中にとどまり、信仰の言葉を聞かなければなりません。神を恐れる人と交わり、神を恐れることを学ぶ必要があります。
それがいのちの泉となり、いのちの光となるのです。