クリスチャンって何だろう2
[テトスへの手紙 2:12,13,14]
その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
今日の聖書箇所
テトス2:1〜15
今日もテトスの手紙から恵みをいただいていきましょう。
使徒パウロは弟子のテトスに対して教会に忍び込んでいる「割礼派」という偽教師たちから聖徒たちを守り、聖徒たちの信仰を健全なものとしていくように指示します。
割礼派の人たちもとても熱心に見え、また自分たちの知らない「霊的な奥義」を知っているかのように見えました。それゆえ人々が惑わされていったのですが、それらの人々の行いを見る時にそれが偽りであることが分かったのです。割礼派の人々の本質は「貪欲」であり「偽善」でした。
健全な信仰とはいつも偽りのない愛を目的としているのです。その信仰と愛はそれぞれの生活の現場で愛の行いとなって現れるはずであり、霊的な指導者はそのように導かなければならないと言っているのです。
まず年配の男性には
[テトスへの手紙 2:2]
年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。
年配の婦人には
[テトスへの手紙 2:3]
同じように、年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。
若い婦人には
[テトスへの手紙 2:4,5]
そうすれば、彼女たちは若い女の人に、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、善良で、自分の夫に従順であるように諭すことができます。神のことばが悪く言われることのないようにするためです。
青年たちには
[テトスへの手紙 2:6]
同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。
奴隷たちには(現代では労働者、雇用者)
[テトスへの手紙 2:9,10]
奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。
使徒パウロはイエス・キリストを信じて救われた者とはこのように生きることができるように不法から救い出された者たちだと言っているのです。ということはこのように生きることができないなら、いくらクリスチャンです、イエス様を信じていると言っていても、その人はその部分で不法の霊、悪魔に支配されているということなのです。もしそうならそれはどれほど恐ろしいことでしょう。
このような御言葉を前にする時、私たちは十字架で赦されているからそのままでいいとか、神は愛だからありのままでいいとか言っていることがどれほど非聖書的、反聖書的なことであるかが分かるのではないでしょうか?
自分はイエス様を信じて救われたと言うなら、自分はクリスチャンですと言うなら、このような御言葉を前にして自分の罪を悲しまないではいられなくなるのではないでしょうか?また自分の未熟さを嘆き、葛藤を覚えないではいられないのではないでしょうか?そして真剣に悔い改め、聖霊様の助けと力を求めないではいられなくなるのではないでしょうか?
そのように求める者に初めて恵みによる聖化、罪からの解放と霊的な成熟が与えられていくのです。そしてそれら全ては自分の努力や頑張りの結果ではなくただ神の恵みによるのです。
そのように日々、聖霊様によって罪を示され、悔い改め、きよめられ、不法の霊から解放され、生活の現場で良い行いを通して福音を証ししている者たち、それがクリスチャンだと言うことです。それが神の恵みの中に生かされている人だと言うことです。
救いは恵みだから、神は愛だからといつまでもありのままの未熟な肉の人に止まっていることがいかに恵みからかけ離れていることなのかが分かるのではないでしょうか?
恵みは私たちが肉の人のままで安住させるためにあるのではなく、私たちが神への愛のゆえに良いわざに熱心な霊的な人となるためにあることを忘れないようにしたいものです。
神の恵みの中にある人は自分の罪と肉の性質に葛藤し、悲しみ、苦しみ、もがくようになり、その苦しみともがきを通してサナギが蝶に変化していくように霊的な成熟へと導かれていくのです。霊的な指導者は聖徒たちをそのような成熟へと絶えず導く者だと言うことです。そうであるならどれほど自分に厳しくなければならないことでしょう。御言葉を前に自分を顧みる時を持ちたいものです。
今日の祈り
主よ、恵みは肉の人にとどまり自分を甘やかすためではなく、生活の現場で善き行いに熱心な霊の人へと成長するためにあることを忘れないようにしてください。