自己中心になるなら愚かな選択を繰り返します
[列王記 第一 12:18,19,20]
レハブアム王は役務長官アドラムを遣わしたが、全イスラエルは彼を石で打ち殺した。レハブアム王はやっとの思いで戦車に乗り込み、エルサレムに逃げた。このようにして、イスラエルはダビデの家に背いた。今日もそうである。全イスラエルは、ヤロブアムが戻って来たことを聞いたので、人を遣わして彼を会衆のところに招き、彼を全イスラエルの王とした。ユダの部族以外には、ダビデの家に従う者はいなかった。
今日の聖書箇所
I列王12:12〜20
今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います、
レハブアムは民の置かれている苦境もその心も理解することはできませんでした。ソロモンの後継者としてあり余る富と豊かさの中で育ったレハブアムには謙遜さも共感性も育つことはなく、愚かな自己中心性だけが肥大していったようです。
レハブアムは労役の軽減を求める民の声に耳を傾けることはなく、かえってその労役を重くすると宣言します。
列王記 第一 12:14,15
若者たちの助言どおりに彼らに答えた。「私の父がおまえたちのくびきを重くしたのなら、私はおまえたちのくびきをもっと重くする。私の父がおまえたちをむちで懲らしめたのなら、私はサソリでおまえたちを懲らしめる。」王は民の願いを聞き入れなかった。かつて主がシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムにお告げになった約束を実現しようと、主がそう仕向けられたからである。
イスラエルの民はレハブアムに失望し、その心はレハブアムから離れてしまいます。レハブアムはそれにも関わらず、イスラエルの民を労役に服させるために役務長官アドラムを遣わします。アドラムは恐らく権力を振りかざして民を支配しようとしたのでしょう。イスラエルの民はこのアドラムを石で打ち殺してしまい、ネバテの子ヤロブアムをイスラエルの家の王として擁立してしまうのです。
役務長官アドラムを遣わしたことは民の反感と敵対心は決定的なものになってしまいました。レハブアムは分裂の危機を収束させるのではなく、火に油を注ぐように危機を拡大させてしまったのです。
このようにレハブアムは愚かな選択を繰り返すのですが、その愚かさは自己中心性という肉の性質から生じているのです。適切な状況判断ができないのも、人の心が理解できないのも、自分の感情と欲を抑えることができないのも全ては彼の自己中心という肉の性質によるものなのです。
人は自己中心性という肉の性質を放置するなら愚かな選択を繰り返すようになります。このようにイスラエルの分裂はレハブアムの愚かさによるものなのですが、しかし聖書はそれらは全て神がそう仕向けたものであると語ります。
主なる神はレハブアムの自己中心性を放置し、彼が愚かな選択を繰り返すことでソロモンの偶像崇拝の罪に対する裁き、そして高慢なレハブアムに対する懲らしめを実現しているということです。
私たちは自分の思い通りのことができるなら、それが幸せで祝福だと考えることが多いものです。しかし私たちが自分の自己中心という肉の性質に基づいて好きなことができるということはかえって神に見放され、見捨てられていることなのです。
そうするなら私たちはますます愚かになり、肉にまいたものをやがて刈り取ることになってしまうからです。
神に愛されているとは懲らしめがあるということであり、肉の性質が砕かれるための訓練があるということなのです。表面的に見るならば逆境や試練が許されるのですが、人はその中ではじめて謙遜を学び、肉の性質はそぎ落とされ、知恵を身につけていくことができるからです。
へブル人への手紙 12:5,6,7,8,9
そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
神の愛とは決して人間的な情ではありません。神は愛している者を決して甘やかすことはありません。大小の逆境を神の訓練として感謝して受け取り、学び、成長することを祈り求めていきたいと思います。
今日の祈り
主よ、あなたの懲らしめと訓練を謙遜に受け取り、そこから学び、成長する者となり、自己中心という肉の性質から私を解放してください。
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