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ご利益信仰と聖書の信仰
[列王記 第一 14:22,23,24]
ユダの人々は主の目に悪であることを行い、彼らが犯した罪によって、その先祖たちが行ったすべてのこと以上に主のねたみを引き起こした。彼らも、すべての高い丘の上や青々と茂るあらゆる木の下に、高き所や、石の柱や、アシェラ像を立てた。この国には神殿男娼もいた。彼らは、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、すべての忌み嫌うべき慣わしをまねて行っていた。
今日の聖書箇所
I列王14:21〜31
今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。
ソロモンの次の王であり、イスラエルを南北に分裂させてしまうことになったレハブアムの治世が短くまとめられ評価されています。
残念ながらその評価は否定的なものとなっています。イスラエルの南北分裂の霊的な原因はソロモンによる偶像崇拝から始まっています。そしてその子レハブアムは南ユダ王国にますます偶像崇拝を拡大させてしまったからです。
南ユダの人々はエルサレムに立派なソロモン神殿があったのです。南ユダの人々はエルサレムが距離的に近いのでソロモン神殿でいつでも礼拝を捧げることができたのです。
しかし人々は自分のすぐ近くに「高き所」という礼拝所を作り、また木の下にも偶像を置いて礼拝するようになってしまったのです。
「高い所」とはカナンの地にいた原住民たちが偶像崇拝をしていた場所でした。主なる神はイスラエルの民がカナンの地に入ってからそれらを全て取り壊すように命じられていたのですが、人々はそれを残したのです。
レハブアムの時代の人々は高き所にアシェラという偶像を置いてそこで偶像を崇拝し、同時にエルサレムにあるソロモン神殿では主なる神を礼拝していたのです。これを宗教混合主義と言います。
ソロモンの時代から始まったこの宗教混合主義はレハブアムの時代に民衆の間に深く、広くはびこってしまったのです。レハブアムはそれを止めるのではなくかえって推進してしまったのです。
ユダの人々の意識としては自分たちは主なる神を礼拝していると思っていたのです。エルサレムにある神殿では定めらていた儀式は守っている、だから大丈夫だ、それでいいと思っていたのです。
その上で身近にある高き所ではカナンの原住民が礼拝していた偶像を礼拝していたのです。なぜそのように偶像を礼拝したのかと言うと、カナンの偶像バアルやその妻であるアシェラは豊作や多産、物質的な豊かさを与えると考えられていたからです。
それゆえイスラエルの民はカナン占領以後も高き所を壊すことなく、そこでのカナン人たちの偶像崇拝を取り入れることになってしまったのです。イスラエルの民も偶像が与えるとされた現世的なご利益が欲しかったからです。レハブアムの時代には神殿のある南ユダでもこのような宗教混合主義が人々をすっかり汚してしまったのです。
結局、イスラエルはこの宗教混合主義による偶像崇拝によって南ユダも北イスラエルも滅亡してしまうことになるのです。それほどご利益信仰、ご利益宗教というのは人間にとって強力な誘惑であるということです。
そしてそれはまた私たちにとっても同じなのです。悪魔はイエス様を信じた者たちをイエス様と共に別なものを礼拝させることで倒してくるのです。イエス様も大事、だけど自分にご利益を与えてくれるこれも大事だとイエス様以外のものも礼拝させてくるのです。
イエス様も大事、だけど偶像も大事とかイエス様も大事、だけど先祖も大事とかイエス様も大事、だけど仕事、お金、趣味、友人、家族・・・も大事だとイエス様と同列に、それ以上に愛するものを作り、礼拝させてくるのです。
もちろんそれらは大切なことなのです。しかしそれがイエス様と同じ、いやイエス様以上に大切なものになっているならそれらは目に見える偶像でなかったとしてもそれは偶像になってしまうのです。
そのような偶像が出来てしまうとやがてその偶像が主なる神の祝福と守りを妨げ、それを奪ってしまうものになっていくのです。それが偶像による呪いです。
レハブアムは主なる神を礼拝しつつ偶像も礼拝し、そのような宗教混合主義を国中に広げてしまいました。その結果はどうなったのでしょうか?
[列王記 第一 14:25,26]
レハブアム王の第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来て、主の宮の財宝と王宮の財宝を奪い取った。彼は何もかも奪い取った。ソロモンが作った金の盾もすべて奪い取った。
ソロモン時代の莫大な富と金銀がエジプトの王によって何もかも奪われていってしまうのです。これが偶像崇拝と宗教混合主義の結果です。悪魔はこのように妥協させることで侵入口を作り、そこから入り込み何もかも奪っていくのです。
私たちはイエス様を第一にしない時、やがて全てを失っていくのです。反対にイエス様を第一にしていくなら、何もなくても全てが与えられていくのです。イエス様を第一にしていくなら、今、目の前には何もなくても霊肉の祝福とあらゆる守りを与えられていくのです。
私たちはイエス様と同じように、イエス様以上に愛し、大切なものがあってはなりません。そうなるならやがてその愛するものを失ってしまうことになるからです。それゆえ目に見える偶像にも、目に見えない偶像にも十分に警戒しなければならないのです。
次の御言葉を心に刻み、聖霊様によって心を探っていただきたいと思います。
[ヨハネの手紙 第一 5:21]
子どもたち、偶像から自分を守りなさい。