問題があることを知った者が解決を求めます
[へブル人への手紙 10:8,9,10]
以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
今日の聖書箇所
ヘブル10:1〜10
今日もヘブル書から恵みをいただいていきたいと思います。
ヘブル書の著者は繰り返し,律法による動物の血によるいけにえは不完全で一時的なもので罪の完全な赦しときよめをもたらすことはできないと強調します。
それらはやがて来る完全なものの影なのです。
[へブル人への手紙 10:1,2]
律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。
しかしなぜそんな影にすぎないないものならそんなものが必要とされたのでしょうか?そんな疑問が湧かないでしょうか?
律法による動物のいけにえ,動物の血は問題提起だと言うことです。それによって自分たちに罪という問題があり,その罪がいかに深刻で恐ろしい問題であるかを教えることにその目的があったということです。
[へブル人への手紙 10:3,4]
ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。
雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。
動物のいけにえの血を捧げることで自分たちには罪があること,その罪は本来自分が死ななければならないほど深刻なもので,それゆえ動物が自分の身代わりに死んで,その血のいけにえが捧げられていること,しかし動物の血は完全ではないので罪の赦しと贖いは成し遂げることができず,やがて来るメシアによる罪からの救い,罪の贖いが必要であることを教えること,それが目的であったということです。
問題があることが分からなければその解決が必要であることは分かりません。そしてその問題が深刻であることが分からなければ誰もその問題の解決を真剣に求めることもないのです。
多くの人は罪という問題がほとんどないか,罪があると思ってもそれがどれほど深刻なものかが分からないままいるのです。
ある人は「罪?それが何だ?人間なんてみんなそんなものだ」と考えていたり。ある人は「自分も確かに罪があり完全ではない。だけどあの人よりはマシだ」と考えていたり,ある人は「自分には罪があるから自分にできることで罪滅ぼしをしよう」と考えていたりするのです。
律法はそういったことでは決して罪の解決を得ることはできないことを教え,あなたにはどうしても解決しなければならない罪,霊的実際的な死をもたらす罪があると問題提起するのです。
クリスチャンの中でも自分の罪の深刻さという問題が分からないまま信仰生活をしている人がいます。それゆえ救われた喜びがなく,嫌々義務的に信仰生活を送っているのです。
しかしそれでは信仰生活は続きません。やがて疲れて嫌気がさしてきてやめたくなったり,実際にやめてしまったりするのです。ヘブル書はまさにそのようになっていたユダヤ人クリスチャンたちに向けて書かれたものなのです。
クリスチャンホームで育って小さい時から教会に真面目に通った人などが救いの喜びがないと良く言ったりします。自分は大きな罪を犯したことがないので罪が赦された喜びもほとんどないとか,劇的な救いの証を持つ人がうらやましいとか言ったりすることがあります。
しかしそれは本当なのでしょうか?そのようなことは神が律法で定められている罪の基準というものが分からないのでそのようになってしまうのです。神の御前に罪の軽重があるならイエス・キリストは重い罪を犯した人のために十字架で血を流して死なれ,それほど重い罪を犯さなかった人のためには十字架で死ぬ必要もなかったということになります。
自分の軽い罪は礼拝に行ったり,献金をしたり,良い行いをしたり,祈りや聖書などの信仰的な行いを頑張ってすることで何とかなると思っている人もいます。そのように考えているなら旧約時代の動物の血の代わりが教会での様々な信仰的な行いになっているだけではないでしょうか?
私たちがキリストの血による完全な罪の贖いの恵みを受け取るためには律法,神の御言葉によって罪という問題が明らかにされなければならないのです。そしてその罪がいかに深刻で自分ではどうすることもできないことをはっきりと知らなければならず。それを知った時に初めてイエス・キリストの十字架の血による答えをいただくことができるようになるのです。
問題とその深刻さを知り,その解決を求めた者だけがその答えが見つかった時の喜びを味わい,感激を味わい,その答えの価値を知ることができるのです。その答えを見出した者は二度とそれを失いたくないと思うのです。その答えを手放して,解決のない律法,頑張り,人間の行い,肉の欲を満足させる古い生き方などの古い方法に戻ろうなどとは決して思わないのです。
やっと見出した答え,探し求めて見出した答え,イエス・キリストとその十字架の血による恵みに生涯,礼拝を通して感謝を捧げるようになり,イエス・キリストとその御心をますます知ってこの御方がますます喜ばれることを追い求めるようになるのです。
それゆえ罪という解決不能の問題に悩み苦しんだ者はイエス・キリストの血による完全な贖いの価値を誰よりも深く知るようになり,その血に誰よりも感謝を捧げるようになり,自分を生きた供え物としてそのお方に捧げて,その御心を喜んで行うようになるのです。それがキリストの完全な血によって救われた者の信仰生活なのです。
もし私たちがイエス・キリストを信じて救われたと言っていてもそうなっていないなら,私たちはまだ自分の罪という問題とその深刻さを悟ることができていないということであり,イエス・キリストの十字架の血という答えの価値が分かっていないのです。
イエスはこう言われています。
[ルカの福音書 7:47]
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
自分の罪をより深く悟ることができた者が,その赦しの恵みの大きさを悟り,その恵みを与えてくださった方をより愛するようになっていくのです。信仰生活とは義務や恐れによってなされるものではなく愛の生活なのです。その愛は自分の罪という問題の深刻さを日々より深く知り,キリストの十字架の血による解決の完全さ,素晴らしさを味わえば味わうほど与えられ,増し加わり,燃え上がっていくのです。
今日の祈り
主よ,自分の罪という問題の深刻さと十字架の贖いの血がどれほど完全であるものなのかを日々悟ることができるようにしてください。
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