信仰は荒野を巡礼する旅
[へブル人への手紙 4:1,2]
こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。
今日の聖書箇所
ヘブル4:1〜11
今日もヘブル書から恵みをいただいていきたいと思います。
ヘブル書の著者は出エジプトしながら約束の地に入ることができず,荒野で死んでしまった先祖たちを例に出して,そうなってはいけないと強く警告します。
出エジプトしたイスラエルの民が荒野で信仰が挫折してしまったのには理由がありました。
一つは彼らには神を恐れる心がなかったということです。彼らは神を試しました。自分たちの願いをかなえてくれたら神を信じる,自分たちの願いが実現しないなら神など信じない,そういった自己中心的で肉的な信仰しかありませんでした。
その自己中心的で肉的な信仰はしるしと不思議,目の前の現象によって一喜一憂するしるし信仰,現象信仰となっていきました。出エジプトしたイスラエルの民ほど大きな奇跡,しるしと不思議を体験した人々はいませんでした。
それなのにいつまでたってもしるしと不思議,現象を追い求めて,それが起これば信じるし,それが起こらなければ信じないという未熟で幼稚な信仰に留まったのです。
彼らに決定的に欠けていたもの,それは神を恐れる心でした。自分たちがエジプトの奴隷からただ一方的な恵みで解放されたことに対する感謝も忘れ,神を自分たちの欲望と願いを実現する道具のように思っていたのです。
そのようなイスラエルの民は神の義,神の聖さというものが何も分かっていなかったのです。神は愛と恵みのお方であると共に人間の罪と不従順に対しては必ず義なる裁きを下す義なるお方,聖なるお方なのです。
出エジプトしたイスラエルの民は荒野で滅ぼされることで神が義なるお方であることを知ることとなってしまったのです。
ヘブル書の著者は苦難と迫害の中で揺れ動いているユダヤ人クリスチャンたちに神を侮ってはいけない,今,信仰を捨てるなら先祖たちと同じような刈り取りをしてしまうことになると警告するのです。
第二に彼らはみことばを聞いてもそれを信じようとはしなかったのです。
神はイスラエルの民に何度も約束の地,乳と蜜の流れるカナンの地へと導くという約束を語られたのです。しかしイスラエルの民はその神の約束のみことばではなく目の前の現実,現象しか信じようとしなかったのです。
目の前には荒涼とした荒野しかなく,水も食べ物もなく,いつまでその荒野が続いているかも分からなかったのです。その目の前の現実だけを見ているなら,どんなに大きな奇跡を見たとしても,信仰を保ち続けることはできなくなるのも当然だったでしょう。
ヘブル書の著者は同じように目の前の苦難に揺れ動いているユダヤ人クリスチャンたちに目先のこと,目にみえることではなく語られた神の約束のみことばを心に留めて,そのみことばを信仰によってしっかりと心に結びつけなさいと言うのです。
神の約束のみことばを霊に刻みつけていきなさいと言うことです。それによって初めて人に信仰が生まれるからであり,それによって初めて人は神のみことばによって動かされるようになるからです。
私たちもまた愛と恵みの神は同時に義と聖なる神であることを決して忘れることなく神を恐れる心を持ち,目に見えるものやしるしと不思議,現象に一喜一憂する信仰から神の約束のみことばに立つ信仰を養い成長させていきたいものです。
そうでなければ荒野のようなこの世でどうして信仰に踏みとどまることができるでしょう?みことば信仰がなければどうして約束の地,真の安息の地である天の御国への険しい巡礼の旅を続けるができるでしょう?
クリスチャンの世界では努力ということは恵みに反することのような悪いイメージで語られることがあります。しかしヘブル書の著者は信仰にとどまるための努力は必要不可欠であることを教えているのです。
次の御言葉を信仰によって私たちの心に結びつけて,この地上での信仰の旅,巡礼の旅の落伍者とならないよう日々努めていきたいものです。
[へブル人への手紙 4:11]
ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。
今日の祈り
主よ,あなたを恐れる心と御言葉を受け入れる砕かれた心を与えてください。信仰に踏みとどまるために最大限努力できるよう助けてください。
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