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理解不能な愛

[ローマ人への手紙 5:6,7,8]

実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

今日の聖書箇所
ロマ5:6〜11

今日は受難週7日目、ロマ書から恵みをいただいていきたいと思います。

ここで使徒パウロはキリストの十字架の愛がいかに深く、大きく、驚くべきものなのかを明らかにしています。

イエス・キリストがなぜ十字架にかかり、死んでくださったのか?それはそれ以外に罪に対する聖なる神の怒りと裁き、罪に対する永遠の刑罰から人間を救う道がないからだと言っているのです。

[ローマ人への手紙 5:9]

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

イエス・キリストの十字架の血による救いは罪に対する神の怒りからの救いであると言っています。

[ローマ人への手紙 1:18]

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

なぜ私たちはイエス・キリストの十字架と復活を信じて救われなければならないのでしょうか?

それを信じたら祝福されるからでしょうか?それを信じたら善いことが起こるからでしょうか?それを信じたら神が願いを叶えてくれるからでしょうか?

そのようにイエス・キリストのことを伝える人も多くいるのですが、使徒パウロはそのようなことは全く言っていないのです。イエス・キリストの十字架と復活を信じて救われなければ、罪に対する神の怒りの刑罰から救い出される道がないからだと言っているのです。

全ての人は罪があるままでは永遠の滅びの刑罰を免れることができなかったのですが、神はそのような私たちをなお愛して滅びることを望まず、そのためにご自身の最愛のひとり子イエス・キリストをこの地上に送り、そのイエス・キリストに私たちが受けるべき罪による神の怒りと裁きを全て担当させ死なせ、復活させることで永遠のいのちと天の御国を与えてくださったのです。

使徒パウロはここに神の愛があると言っているのです。そして使徒ヨハネもそこに神の愛があると言っているのです。

[ヨハネの手紙 第一 4:9,10]

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

そのような神の愛を私たちは理解したのでしょうか?全く理解していませんでした、というより全く理解することもできませんでした。罪が何かも理解できず、罪に対する神の怒りも裁きも、天の御国も永遠のいのちも何一つ全く理解できなかったのです。

そこまでして私たちに救いの道を開いてくださっても、私たちは感謝の一言もなく相変わらず神なんて関係ない、十字架なんて知らないと好きなように、自分勝手に生きていただけだったのです。それが罪による霊的な弱さであり、霊的な無能力でした。私たちはイエス・キリストの十字架を見ても、知っても、そんなものは私には関係ないとそれを無視して自分勝手な道に進んでいただけでした。私たちは相変わらず神の敵でしかなかったのです。

それなのにそんな全く神の愛を理解しようともせず、理解することもできない私たちのためにイエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないでいるのです」ととりなし祈って、黙って死んでくださったのです。

ここに神の愛があるのです。どんなに理解されなくても、どんなに拒絶されてもそれでもその人のために十字架で私が代わりに死ぬからあなたは生きなさいといのちまで捨ててくださる愛、それが神の愛であり、十字架の愛でした。

それが弱い者のために死なれ、敵のために死なれたイエス・キリストの愛でした。その愛を知る恵みを受けた者は神の愛を疑うことなどなくなるのです。その愛を知った者は神が愛ならどうしてこんな事がという疑いを持てなくなっていき、神が愛ならなぜという試みの中に入ることがなくなってしまうのです。

イエス・キリストの十字架と復活を信じていると言いながら、こうだから神は愛だとか神は愛ではないと揺れ動いているということはその人はまだ神の愛、十字架の愛を知らないのです。

またこんなしるしや現象があるから神はいるとか、神は愛だとか言うこともできなくなってしまいます。何があってもなくても十字架による神の愛は変わらないからです。

それゆえ十字架による神の愛を知った者はどんな時も神を喜ぶことができるようになっていくのです。

私たちはこの十字架の愛を知っているでしょうか?聖霊さまだけがこの愛を私たちに悟らせ、理解させてくださることができるお方です。今日、知っている、分かっているという前提を取り除いてもう一度十字架の愛を教えてくださいと祈る者となりたいと思います。

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