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あり地獄のような罪に打ち勝つ

[列王記 第二 13:3,4,5,6]

そのため、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダドの手に絶えず渡しておられた。しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである。主がイスラエルに一人の救う者を与えられたので、彼らはアラムの支配を脱した。こうしてイスラエル人は以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままであった。

今日の聖書箇所
II列王13:1〜13

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

北イスラエルのエフーの後継者たちの話に戻ります。

エフーの後継者はその子エホアハズ、そしてエホアハズの後継者はその子ヨアシュとなります。

エフーはアハブの一族を滅ぼし、北イスラエルからバアル礼拝を一掃したのですが、北イスラエルの初代の王ヤロブアムの罪から離れることはありませんでした。

ヤロブアムの罪とは金の仔牛の偶像を作り、その金の仔牛をイスラエルをエジプトから導き出した主なる神だとしてその偶像を拝ませた罪でした。ヤロブアムがそのようなことをしたのは北イスラエルの民が南ユダのエルサレムにある神殿で礼拝するならやがて民は自分から離れて、南ユダのダビデの家に戻ってしまうことを恐れたためでした。

つまり北イスラエルという国をまとめ、民の心をつかむという政治的な理由で金の仔牛の偶像を作ったのです。それは政治的にはある程度成功し、北イスラエルは国として強くなっていった時期もあったのです。

しかしそのような偶像崇拝は霊的信仰的には呪いと災いをもたらす重大な罪でした。一時は繁栄したように見えた北イスラエルですが、だんだんと衰退と没落への道に入ってしまったのです。

エフーの後のエホアハズとヨアシュもヤロブアムの偶像崇拝の罪を犯し続け、それゆえに北イスラエルの衰退と没落は顕著になっていきます。隣国アラムの侵略によって国は存亡の危機を迎えます。

そのような危機の中でエホアハズは主なる神に叫び、求めるのです。主はそれに答えて救う者を与えられるのです。これは偶像崇拝を続けるエホアハズに対する主なる神の一方的な恵みであり、憐れみでした。

エホアハズはこのような恵みを受けたのですからその恵みの中にとどまっているならさらに癒しと回復が与えられていったのです。しかしエホアハズは主なる神の恵みを忘れ、再び偶像崇拝に戻っていってしまうのです。

エホアハズは典型的な苦しい時の神頼みであり、ご利益信仰だったということです。主なる神を他の偶像の神々と同じように自分の利益のために利用はするのですが、主なる神を愛することも、仕えることも、その御言葉に従うこともないのです。

もしかしたらエホアハズはアラムから救われた時に感謝の捧げものやいけにえを捧げたかも知れません。しかしそれで「はい、さようなら」と主なる神から離れて元の生活に戻ってしまったのかもしれません。

エホアハズは主なる神を自分の利益や肉の欲のために偶像と同じように利用はしても、人格的な関係を築くことは全くなかったのです。神を愛する心、神に仕える心が全くなかったということです。

主なる神は私たちが叫び、求めるならふさわしくない罪深い者にも恵みと憐れみを注いでくださる恵み深いお方です。主がそのように恵みを注がれる目的は私たちが罪を悔い改め、罪から離れて主のいのちの御言葉に従うようになるためです。その時、主なる神の恵みと祝福、守りと導きは継続的に注がれていくことになります。それが恵みの中にとどまるということです。

しかし人の中に巣食う罪の性質のゆえにそのように恵みの中にとどまることは本当に難しいことであることを教えられます。人はどれほど大きな恵みを受けてもそれをすぐに忘れて、再び古い人、自己中心という罪の性質と肉の欲に従って生きるという古い人に戻ってしまうのです。

そのように古い人に戻ってしまうならせっかく与えられた恵みは全て失われ、やがて罪の刈り取りをしていく人生となっていきます。それはらせん階段を降りるように同じ罪を繰り返しながら衰退と没落の中に落ち込んでいく人生です。

エホアハズとヨアシュの統治がまさにそうでした。彼らはヤロブアムが作った偶像に仕えることから離れることができず、国も自分たちも衰退と没落への道を歩み続けるのです。そして彼らの悲劇は自分たちの偶像崇拝の罪がそのような結果を招いていることが全く分かっていないことなのです。罪の本質はそれが罪であることが全く分からないというところにあるからです。

私たちもまたイエス様を信じていますと言っていてもこのような非人格的なご利益信仰、ただの苦しい時の神頼みに陥ってしまうことが多くあります。そして何度も恵みを受けながらその恵みにとどまることなく元の古い人、肉の人に戻ってしまうのです。そしていつの間にか受けた恵みの全てを失い、らせん階段を降りるように衰退と没落そして最後は滅亡へと向かってしまうのです。

イスラエルの歴史は私たちがそうなってはいけないという神の愛の警告なのです。そうならないためには絶えず祈って、絶えず悔い改めることしかないのです。私たちはズレるなと言ってもズレてしまう弱い存在だからです。それゆえ御言葉によって絶えず照らしていただいて悔い改めるしかないのです。

そしてそれができるためには絶えず祈って聖霊充満を維持して、聖霊様の力と導きによって罪と肉の悪魔に打ち勝っていくことしかありません。聖霊様によって新しくされ続けることです。これは旧約時代にはない新約時代の恵みの中の恵みなのです。

ご利益信仰ではダメだということに気づける者は何と幸いでしょう。苦しい時の神頼みではダメだということを悟れる者は何と恵まれていることでしょう。私たちは十字架の血の力、聖霊の力で神を利用する罪と自己中心という肉の力に打ち勝って恵みの中にとどまり栄光から栄光へと変えられていくことを追い求めていきたいものです。

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