ギホー部へようこそ 3-2 曽根崎の妻の死と南雲悠の関係
前回までのあらすじ
大手医療機器メーカーの広報部で働いている村山里穂は、ある日突然『部署留学』という新制度の対象として選ばれた。派遣先は研究所内にある『技術報告書管理部』通称“ギホー部”。初めは不満を持っていたものの、技法がどれだけ大切かに気がついていく。そんな中、昔曽根崎の下で働いていた南雲悠が7年前に自殺したと知る。曽根崎が今でもそのことで苦しんでいるのではないかと思った里穂は…。
第3章 Vol.2 南雲悠の研究内容
午後7時。
ひっそりと静まり返る居室内に、里穂のパソコンの音が鳴り響く。
元々残業などない部署だったが、曽根崎が倒れてからというもの、里穂は積極的に曽根崎を定時で帰らせている。
「えっと…、南雲悠っと。うわ、すごい数の技法…」
あれから里穂は、南雲悠の技法を調べることにした。そこに死の真相が載っているとは思えないし、知ったところでどうしようもないことはわかっていたが、調べずにはいられなかったのだ。
検索欄に彼の名前を打つと、配属されて間もない頃から、多くの技法を出していた。それらは2016年の11月まで続いており、そこからピタリと止まってている。
すべての技法の責任者の欄には、曽根崎のハンコが押されていた。
− 本当にずっと、曽根さんの下で働いてたんだ…。
技法は論文と同様、事実を示すもの。だからそこに彼らの感情が書かれることは少ない。
それでも南雲悠の技法からは、その量や丁寧な考察から、南雲悠の人となりや情熱を感じ取れた。
−「村山さんを見ていると、つい彼のことを思い出してしまって。とても真面目で真っ直ぐで、熱意のある青年でした。年齢も村山さんと同じくらいだったので」
以前、曽根崎が里穂に言った言葉を思い出す。
− あれってもしかして、南雲悠のこと…?
修士号を取得し、2013年に入社したのだとしたら、技法から名前が消えた2016年は28歳になる。そう考えると、30歳になったばかりの里穂と“同じくらいの年齢”と言われても、おかしくはない。
いくつかの南雲悠の技法を読み進めているうちに、里穂はあることに気がついた。
− 彼、二つのテーマを持ってたの…?
一つは薬剤ステントに関するもの、そしてもう一つは、心房細動に関するもの。
(※ステント:血管内に留置する、網目状になった金属チューブで、狭窄した血管を押し広げる役割をする)
1人でテーマを二つ以上持つことは、研究段階では珍しいことではない。しかし、薬剤ステントは当時、製品化に近い段階だったはず。
製品化に近づくと、スケジュールもしっかりと組まれて忙しくなるため、通常は他のテーマを兼任することはまれ。入社4年目の平社員がテーマを二つ持つことなど、まずない。
「彼、よっぽど優秀だったのか、それとも自主的に…?」
「どっちもだな」
いきなり背後で声がして、里穂は「ぎゃっ」と思わず声を上げた。
「うわ、新田さん、いつの間にいたんですか!?ってか、毎回勝手に覗かないでくださいよ」
驚く里穂の言葉など気にする様子もなく、新田はまじまじと画面を見つめる。
「南雲か、懐かしいな…。何?曽根さんのこと気にしてんの?」
「はい…、なんか曽根さん辛そうだし気になっちゃって。それより、ちょうど聞きたかったんです!この南雲さんって、同期ですよね?どうしてテーマを二つ持ってたんですか?」
新田は「あー…」と言って、もう退社した曽根崎の椅子に座った。
「南雲は定時後、自主的に研究してたんだ。優秀だったから、曽根さんが彼の熱意を認めて、チームリーダーと一緒にそのテーマも調べてたんだよ」
「そうなんですね。でも、どうしてこの“心房細動”について調べてたんですか?」
「それは…曽根さんの奥さんの脳梗塞が、心房細動による血栓が原因だったから」
(※心房細動:不整脈の一種で、心房が細かく痙攣したように震え、脈が不規則になること)
そういうと、新田は奥の資料棚へと消えて行った。少しして戻ってくると、一つのファイルを里穂に差し出した。
「これって…?」
「南雲が調べてた、心房細動の資料」
中を覗いてみると、論文や他社製品、その他様々な資料が几帳面な細かい文字を添えられて、ファイルされていた。
「南雲さ、曽根さんの奥さんに世話になったんだよ。出身も同じで、亡くなったおばあちゃんによく似てるって言ってさ。曽根さんとこも子どもがいなかったから、息子みたいによくしてくれたらしくて」
「もしかして、曽根さんの奥さんを助けるために…?」
「助けるためじゃなくて、きっかけだな。曽根さんは今は菩薩のように優しいけど、昔はすごく厳しくて、仕事の鬼だったんだ。そんな中で、奥さんの不整脈の可能性に気がついたのが、南雲だった」
新田はファイルを取り上げると、あるページを見せた。そこには、心房細動によって起こる症状が書かれていた。
「胸焼けや息切れ、後はめまい。ある日奥さんの息切れに気がついた南雲が、不整脈、特に心房細動の可能性を伝えたらしいんだ。でも『入院で家を空けたら、夫に迷惑をかけるから』って、病院に行くのを嫌がって。奥さんは南雲には『診てもらったけど、ただの加齢だった』って嘘をついていたらしい」
「それ…曽根さんは?」
「南雲は口止めされていて、曽根さんは知らなかった。だから、脳梗塞で亡くなった時は寝耳に水で、本当に驚いていたよ」
里穂は新田が見せたページを確認する。
心房細動の怖い点は、症状に気がつきにくく、知らぬうちに左心耳(心房前方にある血液貯留の役割を果たす袋状の臓器)に血栓を作り、それが脳に飛ぶことで、突然脳梗塞を引き起こすことだ。
「曽根さんは仕事ばかりしていた自分を責めたし、南雲も気づいていながら何もできなかった自分を責めた。そんなの、俺からしたらすべて“たられば”に過ぎないと思うけど」
口ではつっけんどんに言うが、新田の目はとても寂しそうに見える。
「でも、そんな彼がなんで自殺なんか…?」
里穂がその言葉を口にした途端、新田の表情が険しくなった。
「自殺じゃねーよ、誰に聞いたんだよ。あいつは、そんなことしねーよ。一人で夜遅くまで頑張ってたんだ。“低侵襲で、もっと気軽に手術できるデバイスを作りたい”って。そんなヤツが、自殺すると思うか!?」
怒りや悲しみの混じった新田の瞳を見つめながら、里穂は思った。
やっぱり、ここにも南雲悠の自殺を信じていない人がいた、と。
「ですよね、私もそう思います」
「だろ?でもだからって、今さら蒸し返すなよ?みんなにとって、辛い過去なんだから」
“みんな”の中には、新田も含まれているのだろうか。
「でも、どうしても気になるんです。曽根さんから“南雲さんと私が似てる”って言われて、人ごとに思えなくて…」
里穂の言葉に、新田は目を丸くしたかと思うと、大きな声で笑い飛ばす。
「南雲と、村人Aが?あはは、あり得ないあり得ない!あいつは賢くて真っ直ぐでいいやつで…。お前とは正反対だよ」
新田はさんざん笑うと、「とりあえず、もう放っておけよ。村人Aにできることなんてないから」と言って、去っていった。
少しでも新田の気持ちを考えて心を痛めた自分が馬鹿みたいだと、里穂は小さく舌打ちした。
次の話