幸せになる恐怖
最近というか前から思っていることに、幸せになるにも何か心の準備のようなものが必要なんじゃないかというのがあります
人間には、というか生物全般には、恒常性いわゆるホメオスタシスが備わっているわけですが、会話でしばしば用いられる広義の意味での恒常性、つまり環境の変化に対して自分が変化せずに一定の状態を保とうとするという意味でのそれが、心のどこかで悪さをしているのではないかと考えました
基本的に人生は、「日常」と呼ばれる繰り返しを日々行なっています
多かれ少なかれ波はあるにしろ、この日常はそれほど大きな変化を伴わないです、だからこそ日常な訳ですが
日常というと、はかせとなのちゃんとさかもとですね
そらからしゃけが降ってくるシーンは非常に印象的です
話が脱線しましたが
そして日常に時々幸福や不幸が訪れます
不幸の場合、恒常性は私たちにとって都合の良い働きをして、私たちが悲しみから元の生活に立ち直るのを助けてくれます
一方幸福の場合、この子の働きは厄介です
私が主張したいのは、幸せな状態から今まで通りの生活に戻されるという作用よりも、幸せな状態に至る前の段階で、幸せになることを無意識に拒絶させてしまう作用があるんじゃないかということです
筋トレや運動、読書など、あらゆる習慣を人間が身につけようとするのを妨げるのは、変化を嫌うという人間の習性であるとよく言われますね
人間の身体や脳みそは、その中身が良いものか悪いものなのか判断する能力を持っていないんじゃないかと思います、だから幸せになれそう、みたいなおそらくポジティブであろう変化も、それが変化であるというだけで、拒まれることがあるんじゃないかと思うんです
なぜこんなことを思ったかというと、実際にそんなようなことを度々経験したからです、当たり前ですが
卑近な例で言うと、異性との出会いがいいかもしれません
マッチングアプリ隆盛のこの時代、例に漏れず私も手を出した訳ですが、比較対象があまりないので分かりませんが、そこそこうまくいくことが多いのです(「が」を二連続使うの気に食わないのです「が」、推敲の手間が面倒なので無視します)
具体的には、マッチする、会話が弾む、実際に会う、その後ごにょごにょ…という流れにあまり困ったことが無いということです
ネット上にあるどんな属性の誰が書いたかもわからないレビューは全く気にしていませんが、それでも目に入るものはネガティブなものが多いような気がします
これは出会えない、マッチしない、サクラだ、あーだこーだ
正直僕には当てはまらなかったです
なのでいちアプリユーザーとしては、ある程度うまくいった側に分類されるわけです
それに加えてリアルの交友関係でもそこそこ恵まれているので(幸福のハードルが低いのかもしれませんね)、ある程度の選択肢が僕に与えられているにもかかわらず、そしてうまくいきそうな気配がそこそこあるにもかかわらず、何故か面倒になって手前でやめてしまう、もしくは言わなくていいやらなくていいことをして自分から可能性を潰していくということがあるのです(あるのですじゃねえよって思った方、僕も同じです)
結局良く言えば手のかかる、悪く言えば面倒なやり取りは、よほど何か情動を刺激するようなものでなければ、必要のない変化として本能に棄却されてしまうのかもしれませんね、人間何億人いるんだってはなし
っていうのが人間関係という仮説に対する一つの例です、それが幸福に直結するのはやはり人が人を大いに喜ばせるものだからですかね、はは
つまるところ、ここぞという時でも、何か理由をつけて変化を拒んでしまう恒常性がやっかいだなということです
自分の中に別の独立した機能を作り出して、そいつがやったことにするなんて、他責思考のかたまりみたいじゃないか
ああ、恒常性より向上性があってくれればなぁ、なんて寒いことを言いつつ
この夏の暑さに負けぬよう、皆様どうぞご自愛くださいませ
追伸
画像貼ったらガビガビになったのと、ヒャダインの曲思い出しました
調べて出てきたんですがヒャダインのじょーじょーゆーじょーが12年前でびっくりしました
あとカカカタ☆カタオモイ-Cも好きでした
懐かしい懐かしい
あーまじでヒャダインほどじゃなくてもヒャドくらい使えたら涼しそうなのに、氷買わなくて良さそうだし