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都市社会××学科とは何か 後編 ~創設までの感動(?)秘話(?)~

前編からの続き


登場人物紹介

A君……横浜国立大学都市科学部都市社会共生学科の学生。高校生の頃、「グローバルに活躍できる人材」になろうと志したが、最近はグローバルに活躍できる人材になることの価値に懐疑心を抱き始めた。

都市社会××学科学科長(本文ではGと表記)……半年前に都市社会××学科を創設した人。グローバルに活躍する人材にだけは死んでもなりたくない。

 A君は、ひょんなことから都市社会××学科の学科長G君と知り合った。以下は、そんなA君とG君との間で交わされる会話である……。

この記事の三つのポイント

①最近の学生のトレンドは?
→真面目な学生ほど、「都市社会共生」みたいな方向性に走る!!G君も実は昔はそうだった!!
②かつてはあった「学問の自由」を復興するのが都社破の目的⁇
→ノスタルジックな思い出話に未練なし!!
③改めて都社破の方針とは?
→何とか異なる道を模索してとにかくハチャメチャにやっていく!!

前置き

G:「文理融合」やら「地域社会への貢献」やらは、もれなく文部科学省主導の大学のネオリベ化政策の一環で、「産学連携」とかいうふざけた名目の下で産業界の奴隷に成り下がっているにすぎないのです。

A:ちょっと言いすぎな気もするけど、そういうことですね。

G:ここまで話してきたような、「都市社会共生学科批判」、ひいてはネオリベラリズム批判というクソマジメな問題意識を訴えようと、「都市社会破壊学科創設」を宣言するポスターをバラまいていたわけですが、中々伝わりませんでしたね。

A:そりゃあんなふざけたやり方でそんな真面目な主張をくみ取れるわけないでしょ。サイコメトリーでも使えなきゃくみ取れないよ。

G:うん。それもそうかもしれない。おふざけ抜きで、授業中に正々堂々挙手して、マジメに批判していたこともあったのですが、それはそれでクレイジー扱いされるだけ。やけになっていたので、バランス感覚がおかしくなっていました。

A:うん。

G:喧嘩をしながらポスターを貼っても、SNS上でバズるのが関の山で、「このクソみたいな社会で一緒にブチカマしてやろうぜ!!」みたいなアツい連絡は一件も来なかったわけです。

A:そういう反応を想定してたんだ。

G:そんなこんなで、「なんでわざわざ学生と喧嘩してまでツイッタラーどもにネタを提供しなきゃいけないんだ」と、段々虚しくなってくる。こちらとしては、マジメに喋ったら相手にされない、ふざけてやると面白がられるけどネタとして消化されるだけという、なかなか手づまりな状況になってしまっていました。

A:あのポスターにそんな真剣な思いがあったなんて😢涙無しでは聞けない感動の秘話だ😢

学科長の封印されし黒歴史⁇

G:とにかく、「都市社会共生」なんてこっぱずかしい押し付けられたタテマエを、まっすぐに信じてちゃダメなわけです。しかし、哀しいかな。最近は、学生がマジメで優秀であればあるほど、そういったトレンドにあまりにもベタに乗っかってしまう傾向があるように思えます。横国も例外ではありません。"意識が高い"様な人は、文部科学省から現場を見ずに押し付けられた「文理融合」というタテマエを実現するために、都市科学部で文理を超えた交流の場なんかを作ろうとしていました。

A:なんか見たことありますね。文理融合の、都市科学部のカタリバ的なヤツですよね……。

G:はい。僕は見たことがあるどころか、一年生の時に数回参加したこともありますが……。

A:えぇ?妨害工作でもしにいってたんですか。

G:いや、結構マジメに、「共生社会の実現の為に、僕に何が出来るかな……」みたいなノリで参加してました。あまり大っぴらにはしたくない黒歴史ですね。

A:普通に考えて都社破とか名乗っている方がはるかに黒歴史だと思いますが……。

G:……。

A:……。

G:とにかく、彼ら彼女らのマジメさ、行動力は凄いわけです。だけど、その"意識の高さ"は、大学の背後にうごめく政治的な力学をちゃんと考慮したものではなかった。そういう背景を視野に入れるのであれば、タテマエ的な「文理融合」を現実に実現するという方向ではなく、そのタテマエ自体を跡形もなくなるまで木っ端みじんにぶっ潰すという方向に向けた方が良かった。この話は、健気に参加していた時期の僕自身を全否定する様で嫌なのですが……。

A:押し付けられたタテマエを木っ端みじんに潰すのが、都社破ということですね。

G:そうですね。ぶっ壊したいのは山々なんですが、それも結構難しいです。近頃はとにかく「持続可能性」的なものの刷り込みが尋常じゃないですから、マジメな学生ほどそういう方向性に行きますよね。

A:G君もそういう学生の一例だったわけですからね。

G:最近たまたまニュースで見たのですが、ある小学校だか中学校だかで、「SDGs部」という部活動が出来たらしいです。

A:「SDGs部」?どんな活動をしているんですか?

G:新聞や雑誌を読んで、「これは非常にSDGs的だ!!」と思った部分を切り抜いて、ノートにペタペタ貼り付けていくらしい。

A:えぇ……。

G:一種のマインドコントロールなんじゃないかと思ってしまうほどのとんでもない話ですが、そんなものは氷山の一角なのでしょう。最近は、”犬も歩けばSDGs”、というくらい、町中がSDGsで溢れていますからね。

"犬も歩けばSDGs"


G:しかし、室井っちも可哀そうだよな。あれだけ必死な思いをして、しょうもないアレコレと戦おうとしたのに、学生がマジメであればあるほど、むしろ彼が嫌ったしょうもない「文理融合」とか「地域社会での貢献」とか「SDGs」みたいな方向に吸い取られていく。あんなに頑張ってたのになぁ……。

A:学科長は、室井さんと面識があるんですか?

G:いや、全くないけど……。

A:そうですか……。

(学科長追記:我々のnoteやSNSでの発信を、室井さんが見つけてどうも面白がってくれているようである。勝手に名誉教授に任命しようと思ったが、よく考えると当学科には教授職がそもそも用意されていないので、勝手に第一号の"名誉新入生"に任命した。横浜国立大学名誉教授兼、都市社会××学科名誉新入生として、室井尚に今後も目が離せない!!)

G:とにかく、設立の経緯を鑑みれば、「都市社会共生学科」という存在は、当然批判されなければならないわけです。「名前のダサさ」はしょうがないとしても、「設立にあたっての社会的背景」を加味すれば、間違っても、「SDGsに配慮した街づくり」を積極的に進めましょうみたいなことにはなってはいけないはずなんだ。そんなことを言っているようでは、ただ単に大学のネオリベ化の先鋭を形成してしまうだけですから。

A:うーん。そんなこと言っても、じゃあどうしたら良いんですか。

G:勿論、そうならざるを得なかったという側面もある。批判するとしても、”都市社会共生学科的なもの”に対するオルタナティブな方向性を指し示すのも難しい。しかし、「都市科学部都市社会共生学科」といういかにも正しそうな言葉の裏に、いかなる政治的背景や社会的背景が隠されているのかっていうことは、少なくとも知ってはおくべきでしょう。知らない限りは、どうすべきかなんてことを考えるステージにすら立てない。

A:うーん。確かにそうですね。僕も、都社共の名前に踊らされて、持続可能性に配慮しながら社会に貢献する人材になるぞ~とか思ってたので、反省します。

G:うむ、猛省したまえ。

A:😢

大学名誉教授(70)「私の学生時代は違った。昔の大学は……」

A:本題に戻りましょう。ネオリベ化する大学を批判したいということは分かったのですが、具体的にどうすればいいんでしょうか。都社破のスタンスとして、どう立ち向かっていくんですか?

G:うーん……。

A:……。

G:ぶっちゃけ何の具体的アイデアもないんだよね。

A:えぇ?!

G:何のアイデアもないから、取りあえず都市社会の腹立つところを思いつくままに打ち壊すしかないわけで……。

A:た、確かに。

G:すげー頭の良い人が突然僕の前に現れて、パッと全てを解決できる夢の様なアイデアを授けてくれないかなぁと最近は思っています。

A:すごく頭の悪そうなことを言っている……。

G:マジメに考えていくと、繰り返しになるけど、昨今のトレンドとして大学のネオリベ化が進んでいる。このトレンドに反対しようとしてまず思いつく方針は、「大学というのは本来そういう場ではない。自由な精神が学問を学ぶことで、知性をはぐくむのである。」みたいなことじゃん。

A:はい。「学問の自治だ!!」みたいなことですよね。

G:そういう立場は人文系の学生や教員のスタンダードな立場でもあると思います。僕としてもこういう立場に共感する部分も多い。しかし、そういう立場のおじいさんおばあさんは、そう主張した後に決まって、「実際私がいた頃の50年前の大学というのは、そういう雰囲気であった。」とか言い出して、「学生時代、自分の友達にこういう面白い人がいました。」みたいな思い出エピソードトークを始めちゃうわけ。

A:はぁ。そうなんですか。それにしても、ずいぶんと酷いことを言いますね。

G:たびたび引き合いに出している室井尚の『文系学部解体』も、終章はそういう話になっていきます。ちょっと引用してみましょう。ちなみに、室井さんは1955年生まれです。御年67歳かな。

 それほどまでに彼ら(学科長註:最近の学生)は、社会で自分が「負け組」にならないかという不安でいっぱいなのである。
 こういう傾向は年を経るごとにますます顕著になってきている。
 私たちが中高生や高校生だったころには、中学生なのにニーチェやドストエフスキーを読んでいたり、高校生になると岩波文庫の青帯(哲学部門)をすべて読むと宣言したりする同級生や上級生たちがいた。背伸びをして、大学の教科書を読み、哲学雑誌や映画雑誌を毎号購読している高校生も少なくなかった。

室井尚『文系学部解体論』

G:終章「大学は死なない」ではこういう感じの思い出話が20ページにわたって続くわけです。読めばわかるけど、終章まではフツーに読めるんだけど、この終章は全然面白くない。

A:えぇ、そうですか。楽しそうじゃないですか、昔の大学は熱気があって。

G:もういいよ、そういう思い出話は。何が「大学は死なない」だ、こんな大学はもう死んだんだ、というか、死んだ方が良かったんだ。

A:今まで散々参照したくせに、急に引くくらいボロカス言うな……。

G:こういう大学が成立していたのは、特殊な社会的条件が色々奇跡的にかみあっただけ、ただそれだけのことなのです。本人も途中で、「学問の自治」みたいなものは高度経済成長期や大正時代に見られた幻想に過ぎないという旨のことを書いていたはずなんだが、どうしてそのことを忘れてしまったのだろう。

A:じゃあもうそういうことでいいですよ。そうだとして、それで何が言いたいんですか?

G:もしも「学問の自治守れ!!」的な立場が、こういうノスタルジックな思い出話に依存しなければ成立しない代物だとしたらどうでしょうか

A:さすがにそれは意地悪過ぎる批判な気もしますが……。

G:とにかく、そういう「昔の大学は自由で良かった!!これからの大学は、かつての様な、相応しい知性を育む場所にしよう!!学問の自由守れ!!」みたいな主張には、反対とまでは言えず、なんなら賛成する気持ちも大きいのですが、ベタに乗っかっていく気はなかなか起きないのです。

改めて都社破のスタンスとは?

A:そんなこと言っても、じゃあどうすればいいんですか。

G:そう言われると困るんですが……。やっぱり、すげー頭が良くて滅茶苦茶凄い人が電撃的に現れて、道を指し示してくれるのを待つしか……。

A:ひどすぎる……。

道を教えて……


G:真面目に考えてみると、僕は一学生の立場だからこれだけ好き放題言えます。だけど、大学に勤めている方なんかは、やっぱり生活があるので、一種の労働運動として「大学はかつてそうであったように、知性を育む場なんだ!!そういう知性こそが、社会を豊かにするんだ!!金を大学に回せ!!」と主張することは、あらゆる意味で素晴らしいことだと思います。生活がかかっているという事実は重いです。しかし、都社共の非公認姉妹学科、というか要するに大学とは全然関係ない我々都社破の立場としては、そういうタテマエはいらないはずです。

A:確かに。

G:何の後ろ盾もないクソ雑魚だが、その代わり本当に色んなものを自由に批判出来るのは、我々の立場なはずなのです。都社共は、大学の一機関である以上、ネオリベ化に迎合して「地域社会への貢献」とか「グローバルに活躍できる人材の養成」とかいうタテマエを採用するか、或いは大正デモクラシーや高度経済成長期に一瞬だけ感じられた「学問の自治」とかいう、これまたタテマエを採用するかしかない。どちらにしろタテマエに過ぎないわけです。我々にはそういったタテマエは皆無です。タテマエが皆無な分、後ろ盾も実力も皆無なのですが……。

A:大学とは全く関係ない場所で、自由な批判を繰り出すべきということですね。

G:そうです。ネオリベ化も、「学問の自治」路線も退けるならば、大学の制度的なカリキュラム、アカデミズムとはある程度距離を置いて、外野から野蛮な学生としてあれこれ批判のロジックを積み立てていくしかありません。

A:うーん……。そこまでして何かを批判したいものですか。「反対の為の反対」って感じで、不毛で野党っぽいですよ。単なる逆張りなんじゃないんですか。

G:あぁ、そうさ、逆張りだよ。逆張りで何が悪いのさ。

A:開き直るんですか?!

G:今の世の中は、とにかく、「順張り地獄」なわけです。どいつもこいつも何も考えず、順張りに順張りを重ねているだけ。だったらこっちは何も考えず、反射的に逆張りを重ねるしかないだろ!!

A:それはそれで考えが安直でしょう。

G:というかそもそものところ、人文社会科学的な言論の特徴の一つに、そういう不毛さ、野党感というのがあると思います。「自由な批判を可能にする学問が人文社会科学だ」とかよく言われますが、それって要するに、逆張りが可能になる言論ということじゃん。逆張りに論理的な裏付けや資料的な裏付けをすれば、もうそれで立派な人文社会科学的な言論だよ。

A:そんなこと言っていいんですか??だいぶトンデモな暴論な気がしますけど。

G:その界隈だと相当強い権威を持っているミシェル・フーコーの生権力批判の思想とかも一種の逆張りなんじゃないのかな。逆張り的な要素が一切なくああいうことを言っているんだったらちょっと恐ろしいんだけど。

A:うーん、どうなんだろう。

(補足:生権力批判
……学校や病院といったところは、私たちに教育を施してくれたり、或いは私たちの病気を治療してくれたりと、非常に親切なように思える。しかし、フーコー曰く、実は学校も病院も、私たちを監視・管理することで、従順な主体になるように「規律訓練」しているに過ぎない。こういった近代的な権力は、一方的に「殺す」権力ではなく、人を「生かす」権力、だから、「生権力」と呼べる。)


ミシェルフーコー。スゴイ哲学者。

G:いくら「生権力批判」とか言っても、学校や病院を無くしたら困るでしょ。寧ろそういったサービスを無償で皆が受け取れるようにどんどん充実させていくべきだとフツーには思っちゃわない?

A:リベラルな福祉国家路線は、そういう風に考えて福祉や教育の拡充を求めるわけですよね。

G:冷静に考えて、非常に真っ当な考えだと思います。しかし、ありえないくらいめっっちゃくちゃ冷静に考えると、フーコーの言っていることにも一理あるような気がしてこなくもない様な気もしてくるかもしれない。

A:ほぼないですね。

G:とにかく、「生権力批判」とか言って「生かす権力」を批判しているフーコーをみんな有難がって参照しているんだから、都社破だって、「都市社会共生的権力批判」とか言って「共生させる権力」を批判しても良いでしょ。

A:うーん。確かにそうかもしんないけど……。都社破としては、「都市社会共生的権力」が作動する大学、或いは広くこの現代社会の中で、なんとかしてそれを乗り越えようと頑張るということなんでしょうか。

G:うん。けど、「共生させる権力」という壁はあまりにも高いから、"乗り越える"ことが最終目標なんだけど、"乗り越える"のも難しい。だから、暫定的には、その高すぎる壁をゴンゴン"たたい"たり、"引っかい"たりしていくことですね。そうすれば、登るためのとっかかりとかもそのうちできるかもしれないじゃん。

A:どうも比喩的ですね。何が言いたいんですか。

G:要は、当面は展望が見えなさそうなので、みんなで一緒にストレス発散をしてガス抜きしていくしかないということです。

A:えぇ……。そんなことでいいのか……。

"共生させる権力"の正体を分かりやすく図解!!


G:とにかく、「都市社会共生学科」といういかにも正しそうな言葉で飾られた存在は、その成り立ちの経緯に何かしらの問題があることは明らかなわけです。そして、その問題というのは、現代日本社会全体の問題に通底したものである。これも間違いない。そのあたりをビシバシ批判していくことから、まずは始めていきたいですね。これに関しては、課程長であった室井尚も言っている通りのことであって、逆張りでもなんでもない、超王道の順張りです。

A:急にマジメですね。キリもいいし、終わりますか。

G:とにかく都社破をどんどん拡大して行こう!!都市の未来で騒々しく騒いで足を引っ張る人材をたくさん育成するぞ!!

A:エイ!!エイ!!オー!!
                            (おわり)

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 本記事でもたびたび参照した、室井尚『文系学部解体』をテキストに、都社破の初回講義「都市社会共生学科とは何か」を行います!!
 
六月十八日14:00~、開催はzoomの予定。途中参加、途中退出ももちろんオーケー、横国生以外も勿論参加大歓迎。
 学科長直々の、伝説の初回授業を見逃すな!!

 それ以外にも諸々活動中なので、気になる方は以下のdiscordチャンネルを覗いてみよう!!
 横国の学生は勿論、それ以外の学生も大歓迎!!

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