"共生社会の実現"とか言ってちゃダメな理由 ~排除アートこそが"共生社会"を実現する⁈~
登場人物紹介
A君
……横浜国立大学都市科学部都市社会共生学科の学生。高校生の頃、「グローバル人材」になろうと志したが、最近は「グローバル人材」になることの価値を疑い始めた。
都市社会××学科学科長(学科長の頭文字をとって、Gと表記)
……一年前に都市社会××学科を創設した人。グローバル人材にだけは死んでもなりたくない。
都市社会××学科は、横浜国立大学都市科学部都市社会共生学科の成立過程を批判することを目的としてできた新設の学科。詳しくはこちら。
この記事の三つのポイント
①学科名から”破壊”が消えた理由とは?
→都市の破壊が目的ではなく、都市社会共生学科の成立過程を批判することが大切だから!!
②排除アートこそが共生社会を実現するのはどうして?
→”共生に値しない人間”を不可視化することで、”共生できる人間”しかいなくなるから!!
③”共生社会”批判のための三つの名著とは?
→原口剛『叫びの都市』、外山恒一『全共闘以後』、東浩紀・大澤真幸『自由を考える』!!
前置き
A:また横浜国立大学のキャンパスで無茶苦茶なことをやってましたね。
G:どうしたんだい?何かあったのかい?
A:白々しいな……。またキャンパスのいたるところに「都市社会××学科」のふざけたポスターを、場所にお構いなしにしっちゃかめっちゃかバラまいていたでしょうが。
G:えぇ?!そんなことがあったの?!それは初耳だ😲
A:初耳って、どう考えてもあなたが作ったポスターでしょ……。都市社会共生学科のHPをパロディ、というか揶揄したポスターとか、「俺の話を聞け~!!」とデカデカ書かれたポスターとか。
G:えぇ😢
学科名から"破壊"が消えた理由
A:大学でも話題になってましたよ。面白かったのが、ある同級生が、「一年前は破壊学科とか名乗ってたくせに、急にちょっと日和り始めて××学科って名乗り始めてるのがウケる」って言ってたことですね。
G:うーん、中々手痛い批判だねぇ。けど、そんな"都市社会破壊学科待望論"が横国の世論になっていたなんて、何だか恥ずかしいね。
A:いや、誰も待望はしてないけど……。そもそも、なんで学科名を変えたんですか?
G:始めはあくまでポスター上にしか存在しない架空の団体として、"都市社会破壊学科"という架空の学科を作ってみたわけです。
G:これだと、取りあえず「都市社会共生学科」という学科名をバカにしながらパロディしていることが分かるし、"都市社会共生"的な理念に鬱々としている奴を釣れるかなと思ったわけです。
A:じゃあ破壊学科のままでいいじゃないですか。
G:しかし、これが実際にアカウントを作り、noteで発信し、discordで連絡を取るような、実体のある"学科"、というかぶっちゃけ"インカレサークル"になっちゃうと、"都市社会破壊学科"って名称だと色々不都合があるかなと思ったんだよね。
A:不都合って?
G:だって、別に"都市社会破壊"が目標じゃないからなぁ……。
A:えぇ……。
G:破壊っつっても、ホントに都市社会がぼろぼろになったら、それはそれで困るし……。
A:そりゃそうかもしれないけどさぁ……。
G:それに、僕自身殴り合いもしたことがないタイプの気弱な人間だから、ホントに粗暴でムシャクシャしている人間の破壊衝動に答えることは、当学科は現状できない。せいぜいできるのは、キャンパス内でポスターをばらまいたり、他の学生とレスバしたりすることくらいなんだよね。そんなガス抜きのいたずらレベルのことで破壊とか名乗ってちゃダメなんじゃないか、と。
A:そんな謎の苦悩が……。
G:当学科は都市社会破壊が目的ではなくて、都市社会共生学科の成立過程を批判することが第一の目的な訳です。しかし、その成立過程を批判する為には、その成立過程の裏に潜む、"共生社会の実現"的な理念ごと、批判しないといけないと思っている。
A:うん。
G:ただ、"共生社会"という理念をひとまず疑いにかけて否定するとしても、新しい理念を即座に提出できるわけじゃない。その新しい理念を探したいから、ホントはこうしたかったんだよね。
A:これって、どうやって発音するの?
G:そう、これだと発音問題にぶち当たる。だから、次善の案として、共生に代わる言葉を探そうっていう意味で、「都市社会○○学科」にしようと思った。だけど、"○○"="マルマル"って、どこか間が抜けてるじゃん。だから「都市社会××学科」ってことにしたんだよね。こっちだと、なんかこう、シャキッとした感じが出るでしょ?
A:どっちも大して違わないだろ。
G:うるせー、俺に指図すんな。
A:傲慢で権威主義的だ……。
G:ま、"学科長"だし、学科長らしく居ないとな。権威って奴は人を変えるんだぜ。
A:後ろ盾も実力もない団体の学科長に、一体どんな"権威"があるんだ……。
G:……。
A:話を学科名の件に戻すと、「都市社会××学科」って、「都市社会共生学科」を知っていればそれのパロディだってわかるけど、そうじゃない人には何がなんやら分かりませんよ。一方、「都市社会破壊学科」であれば、何も知らない人の目も引きますよね。
G:うん。だけど、「都市社会破壊学科」だと言行不一致になっちゃう。そこで、悩みに悩んだ末に、折衷案として、正式名称は「都市社会××学科」で、略称にだけ「都市社会破壊学科」時代の名残を残して、"都社破"にしたんだよね。
A:どうでもいい勝手な苦悩だな。
G:別に苦悩してたっていいだろ、誰にも迷惑かけてないじゃん。
A:確かにその苦悩は迷惑をかけていないけど、学科の活動自体は迷惑そのものな気がしますけど……。
G:うるせー。都市社会××学科の別名は、"都市社会迷惑学科"なんだぜ。
A:自覚的に人に迷惑をかけていくスタイルなんですね。それにしても、"学科長"さん、そんなに苦悩してまで何故「共生社会の実現」みたいな理念を批判したいの?
排除アートこそが共生社会を実現する
G:”共生社会の実現”みたいな理念を批判したいのは、都市社会共生という理念を掲げてしまっては、簡単に、共生できない他者を排除することへと向かってしまうと思うからです。
A:いまいち抽象的すぎるな。具体的に言うとどういうこと?
G:有名な事例を出せば、排除アートとかじゃないかな。
A:排除アートですか。僕なりの理解はこうです。公園や駅のベンチなんかを、突起があるように設計する。そうすることで、そのベンチに寝っ転がれない様になる。或いは、駅で人がたむろする様な場所に、何の脈絡もなくトゲトゲのオブジェを、いかにもアート風に置いてみる。通行人の多くはそれを見ても、「現代アートなのかなぁ」とか思って通り過ぎるだけですが、その実、行政がホームレス排除を明確に意図して設置しているわけですね。
G:うん。まさにそういうのが排除アートですね。
A:いやー、なんとも酷い話だ。共生社会を実現するためにも、こういった排除アート的なものには断固反対しないと……。
G:うーん……。
A:どうかしたの?
G:いや、僕も排除アート的なものは酷い話だと思っているんだけど、どうもA君の物言いはしっくりこないなぁって。
A:えぇ、どこがしっくり来ないのさ。
G:中々説明しづらいんだが……。結論から先に話しちゃうと、排除アートこそが共生社会を実現するんだと僕は思っているんだ。
A:えぇ⁈そりゃあ詭弁過ぎますよ。流石に度を越えています。
G:まぁ、都市社会××学科、別名都市社会迷惑学科、そのまた別名”都市社会詭弁学科”だからね。
A:……。排除アートが共生社会を実現するっていうのは、流石に意味が分かりません。それこそ、都市社会共生学科の授業でも、「周縁化された社会的弱者が、排除アートによって虐げられている。許しがたい不正義だ。」と言われていました。”都社共”が排除アートを問題視してるってことは、排除アートは共生社会の敵なんですよ。
G:A君が都市社会共生学科で排除アートについて学んだように、各地のリベラルな大学教授が排除アート的な現象を授業で教えて、その問題を学生と共有しようと試みている。そして、そうしたエピソードのオチとして少なくないのが、こんなことです。「住民の安心が確保できるという理由で、学生の多くは排除アートを肯定していて、その問題性が分からないようだった。今の若者との意識の違いに絶望した。」みたいなオチです。
A:BADエンドだ……。
G:ま、自分が抱えている問題意識が共有できないことに愕然とするっていうのは、"社会派あるある①"ですね。
A:そんなネタ切れして変な方向に尖り始めたアメトーークみたいな……。
G:とにかく、リベラルな教育を受けていて、頭でっかちで理念先行になりがちな大学生という人種ですらそうなんだから、社会の圧倒的大多数は排除アート的なものを歓迎しているんだ。
A:確かにそうかもしんないけど……。
G:排除アート的なものを推し進め、それを支持しているのは、健全な市民の大多数な訳です。彼ら彼女らの、「私たちの子供が安心して使える公園を作ってほしい」みたいな訳わからん甘えた要望によって、排除アート的なものを用いた社会の浄化は進んでいく。その浄化の果てにこそ、”共生社会”は実現するんだ。
A:そんなの共生社会じゃないでしょ。ただ社会的弱者を不可視化しているだけなんだから。
G:まさにそれこそが”共生社会”なんだよ。言い直せば、健全な市民に不安を与えてしまう様な胡散臭い連中を”共生に値しない人間”として排除し、不可視化していくことで、”共生できる人間”しかいなくなる。こうして、"共生社会"は実現するんだ。
A:詭弁だ!!詭弁だ!!
G:詭弁じゃねぇ!!受け入れろ!!
A:G君が言っていることを受け入れると、”共生社会”という理念を掲げてしまっては、簡単に、共生できない人間を排除する方向に進んでしまうっていうこと?
G:うん、だって、美しい”共生社会”のジャマになるものをポイっと”排除”しちゃえば、それで見かけ上は立派な”共生社会”じゃん。だから、排除アート的なものに反対するためには、”共生社会を実現する”とか主張していてはいけないんだ。
空虚な"共生社会"を疑え!!
A:うーん。そうとも言えるかもしれないけど、やっぱり、真の共生社会の実現がまだできていないからこそ、排除アート的なものが必要とされるんじゃないかな。今はみんなが非寛容になってしまっているから、不安感を取り除くために排除アート的なものが要請されるだけであって、寛容さを持った市民が、諸々のものを理解し、許容し、共存していくことこそが、本当の"共生社会"でしょう。本来ならば、社会はそうであるべきなんだ。
G:"本来なら"、そりゃそうだよ。だけど、そんな仮定の話をしたって何の意味もないじゃん。今の日本国民の多くは、自分たちとは異なる価値観を持っていそうな胡散臭い連中が、公園や駅、あるいは大学キャンパスなんかを歩いていることは許容できないの。
A:うーん……。
G:そりゃあ、寛容な主体を形成することに日本社会が成功していたら、或いは、成功しそうな見込みがあるのであれば、A君の議論にも意味があると思うよ。だけど、今後そういう見込みが成就しそうな可能性は、多めに見積もって0.1%くらいでしょ。真の共生社会みたいなことを想定しても何の意味もないんだよ。
A:そうかなぁ。
G:無意味どころか有害でさえあるよね。"共生社会"という理念が悪用されて、社会の"浄化"が一層進むことさえあるんだから。
A:うーん……。G君の言いたいことも分からないでもないよ。要するに、「排除アート的なものこそが共生社会を実現する。ならば、排除アート的なものを批判する為には、共生社会という理念ごと批判しなければならない。」っていうことだよね。
G:うん。それを都市社会××学科のレポートで書いてくれれば満点あげるよ(笑)
A:うるせぇ!
次に"排除"されるのはあなたかもしれません……
G:共生できない人間を排除することで"共生社会"が実現されるっていう傾向は、大学キャンパスにおいても起こりまくっていると思うよ。
A:例えば?
G:具体例を調べて列挙していくのはめんどくさいんで、学科長の実体験から喋らせてください。前も言った話を使いまわすと、当学科の創設を宣言するポスターをキャンパスで貼っていたら、フツーの横国の学生と喧嘩になったことがあったんです。その時に向こう側に、「こんなことをウチの部室の前でされたら、一年の女子が寄り付かなくなるので辞めてください」みたいなことを言われて、僕からすると、「お前らのサークルに一年の女子が寄り付かなくなるとか、そんなこと知ったことかアホ。それ以外が寄り付くだけありがたく思えバカ。こちとら一年~四年の男女が寄り付かないんじゃボケ。」って思ったって話なんですけど……。
A:鉄板エピソードトークみたいにしてるよね。
G:オモロイじゃん。
A:ハイハイ。
G:とにかく、ウチの学科の物騒なポスターを見て面白がって、それでtwitterまで飛んできて、それどころかnoteのこんなところまで読んでいるようなそこの君は、世間からはちょっとズレてる胡散臭い人間なんだから当然、共生社会の邪魔になって、排除されてしまうわけです。次に排除されるのは、あなたかもしれません……。
A:そんな左傾化する稲川淳二みたいなオチでいいのか……。
"共生社会"批判名著三選
G:最後に、"共生社会"的な理念を批判するにあたって参考になる都社破的名著三選をお勧めして、今日は終わりましょう。この辺を読めば、僕が"共生社会批判"に拘泥する理由も分かるはずです。
A:ふーん。
G:第一に、原口剛『叫びの都市』ですね。
G:始めの方は議論が哲学的すぎてあんまり面白くないのですが、途中からは抜群に面白いです。
A:どんなところが?
G:この本は、釜ヶ崎で起きる暴動について考察した本なんですね。釜ヶ崎は、ドヤと呼ばれる簡易宿泊所に集めさせられた下層労働者が集められるので、ドヤ街と呼ばれます。しかし、その寄せ集められたドヤを拠点に、新しい抵抗、というかぶっちゃけ暴動が起きたりしていたわけです。それを問題に思った行政が、「福祉」とか「社会的包摂」の名の下、ドヤを解体し、公園からホームレスを追い出し、そして、街全体を"浄化"していく。そういうプロセスが書かれています。
A:へぇ~。
G:暴動が起きる前にそれを可能性ごと潰そうとされる。しかも、そういったことが「福祉」とか「包摂」みたいな言葉の下で行われている。そんなんだったら、「福祉」とか「包摂」ってワードが欺瞞なんじゃないのか、ってことが語られます。
A:随分マジメな本ですね。
G:都社破はずっと超マジメなんだって。上の本は、労働問題からそうした問題意識を語るわけです。しかし、学生がこういう釜ヶ崎暴動に憧れていても、それは、自分とはかけ離れた外部に何か神秘的なものを見てしまう、安易なロマン主義に陥りかねません。そういうのは一番ダメです。
A:学生はやっぱり、当事者として学生の問題を考えないと!!
G:その通り!!そんな時に、二冊目、外山恒一『全共闘以後』です。
G:「1972年のあさま山荘事件で学生運動は終焉し、政治の季節が終焉した」なんてことがよく語られますが、実際に日本社会で起こっていたことは、そんな簡単な話じゃない。この本では、"全共闘以後"の50年間に、若い人たちが何に抵抗し、そして社会はそれにどう応えたのかの、50年の通史が書かれます。この本のアツさに触れれば、”共生社会”なんてヌルイこと言ってちゃ学生はダメだって、きっと思うはず!!
A:アツい本なんですね。
G:うん。アツい本なんですが、同時に非常に厚い本です。ハードカバーで600ページですから、情報量が膨大すぎて一人で読むには厳しいかもしれません。都社破のdiscordに入れば、みんなで一緒に読めます!!
A:もうこれは、入るっきゃない!!
G:ここまでの本が、割と具体的な現代史の経緯について記した本です。三冊目には、多少哲学的で抽象的な本をオススメしておきましょう。といっても、僕は哲学は苦手だからちょっとズレた本かもしれないんですけど……。
A:保険はいいよ。
G:東浩紀・大澤真幸の『自由を考える』ですね。
G:誰が言いだしたか知りませんが、排除アート的なものは、「環境管理」と呼ばれたりしています。そういうものが、一体どういう風に位置づけられるのかを思想家2人が座談会形式で考察している本ですね。2人とも割とお気楽に話しているので読みやすいです。とりとめがないとも言えるんですが。
A:へぇ~。
G:一冊目と二冊目は、近いうち都社破のスタジオでも取り扱いましょう。それでは、また来週!!
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