自分の感情を指針にする

養老孟子さんの著書『バカの壁』に書かれていた「感情の係数」の話がとても印象に残ったので、ここで考えてみたい。
そこでは「y=ax」という方程式を使って、「y:結果(行動)」「x:何らかの入力情報」「a:感情」で説明していた。
まず、「x:何らかの入力情報」があったときに、ある人の「a:感情」が、「0」であったなら、「y:結果(行動)」も「0」になる(行動につながらない)のに対し、もし「a:感情」が大きい数字であればあるほど、、「y:結果(行動)」も大きいものになるという説だ。(「a:感情」が無限大になった例が宗教における原理主義であり、「a:感情」がマイナスに振れる場合もあるという話もあった)
具体例として挙げられていたのは、養老氏の実体験で、薬学部の学生に出産のビデオを見せたときの女子大学生と男子大学生の反応の違いだった。男子学生は、「これは既に前の学校で習っている」という反応(「a:感情」が「0」か、それに近い)であったのに対し、女子学生は「新しい発見がたくさんあった」(「a:感情」が大きいものになった)というものだった。

自分の感情が現実に影響するという話はとてもシンプルなのだが、この「感情」というものが、自分の人生において、少し軽視されていたのではないかと思ったのだ。
例えば、自分が仕事を決めたときに「自分の感情」は、しっかりと加味されていたのかどうかを振り返ってみた。
やはり、「感情」は軽視されていたのではないかと思う。
自分の心はあまり動かないことが想定できるような、興味を持てない仕事であったのに、「キャリアにつながるから」「給料が良いから」「もしかしたら今後興味を持てるかもしれない」という、とってつけたような考えで、仕事を決めたことで、毎日「行きたくない」という気持ちを抱えながら、仕事に向き合うことになってしまっていた。
「仕事は辛いもの」「仕事は我慢するもの」という世間一般でいうところの常識から抜け出せていなかったのではないか。
自分には「やりたい仕事」があった。自分は「漫画の編集」をやってみたかった。でも、「挑戦するのには実力が足りていない」「多分向いていない」「学歴が足りていない」という、やはり逃げるための口実を自分のなかで用意していた。
でも、もし自分が漫画の編集の仕事が出来るなら、きっと自分の感情が大きく動くことは想定できる。それがプラスに動くか、マイナスに動くかは分からないけれど、興味が持てる分野だし、大いに可能性は感じる。
どうして自分は、挑戦から逃げてしまったのか。つまり、自分の感情から逃げていたともいえる。それが今のパッとしない人生をつくり出していると言っても過言ではないかもしれない。
そして、自分の感情がひとつの指針になるのではないかと思った。世間一般でいうところの間違いのない選択というものはあるけれど、そういう常識というものに縛られて選択することが、自分にとっての正解とは限らない。自分の感情はどうなのかという問いかけを持って判断することで、今までとは違う選択が出来るし、それが自分を変えることにつながるのではないかということだ。

なんとなく習慣でやっていることに対しても、この指針を持つことで、それを続けるのか、それとも辞めるのかの判断が出来る。何となくやっているけれど、特に面白みも感じられないし、どちらかというとマイナスの側面が強いのに、どうしてこれを続けているのか分からないというものがあるかもしれない。

自分の感情が動くか、動かないかという指針で、自分の行動を整理することもできる。だから、自分の感情の地図(いろいろなパターンの、自分の「y=ax」を記録したもの)を持つことも、きっと人生において役に立つはずだ。

自分の感情の地図を持たない人は、周りに振り回されている人なのではないか。自分の感情について敏感でないと、自分が何をしていると楽しいのか、自分が何をしていると辛いのか、どんなことが好きで、どんなことが嫌いなのかが分からなくなってくる。ただでさえ現代社会には膨大な情報が流れ込んできている。自分の感情を、現代の情報の海に埋没させないようにするためにも、自分の感情の地図を持つべきではないか。
つまり、日記をつけることだ。自分の感情について記録を付けることで、変えられる自分自身の現実があるのではないかと思う。
そして、自分の感情が大きく動くような夢を見つけて、それを追求していくような人生にしていくことが、つまり人生の幸福なのではないかという仮説をここで立ててみる。


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