感情を出すことさえ許されない
人前で感情を出してはいけないという感じがする。この日本社会において、公の秩序のためには、個人が感情をもってはならない。感情を出すことは許されない。個人の感情よりも公の秩序が優先されるべき、そういったイデオロギーが日本では幅を利かせている。例えば、人前で怒る人は馬鹿で、愚かで、秩序を乱す悪い人だというキャンペーンがあった。
最近では、ウィル・スミスが、公の場で自分の妻を悪く言われたことに対して、その発言をした司会者に実力行使=平手打ちをしたことで糾弾されるという報道が記憶に新しい。
この報道に対して、どのよう議論がなされ、結果としてどのようななものになったかは、よく分からないのだが、自分の妻を悪く言われたことで怒ったウィル・スミス個人の感情よりも、公の秩序が優先された例として挙げられるのではないか。
それが良いのか悪いのか。当事者の立場で考えると、分かりやすい。もし自分がウィル・スミスの立場で、自分の大切な人を悪く言われたときに、強い悲しみと怒りの感情を覚えたとする。そのときに手を上げたウィル・スミスの行動は良くなかったのかもしれないが、果たしてどうやってその感情をぶつければいいのだろうか。そもそも、ウィル・スミスは、そこで自分の感情に決着をつける術(すべ)を、平手打ちを食らわせる以外に持ち合わせていたのだろうか。壇上にいる司会者にはマイクがあるから、自由に発言して、その場にいる全員に自分の言葉を聞かせられるが、ウィルは観衆の席に座っているから、言われたい放題だ。そんな状況で、大切な人が、すぐ隣にいる自分の大切な人が言葉で傷つけられているのに、それに沈黙して座っていることが果たして、この社会で求められていることなのか。
「クソくらえ」と言いたい。個人の感情より公の秩序が優先される社会なんて「クソくらえ」だ。もちろん程度はあるが、すべての場合において公の秩序が優先されるなんてことは看過できない。
しかし、この日本においては、自分が良くないと思う方向に進んでいるような気がしてならない。
ただ、感情を持つことは自由であって、思想の自由は憲法で保障されている。そして希望を持てるのは、日本人は隠しているだけで、非常に自由な感情・考えを持っていることだ。創造性豊かなアニメや漫画の世界を見るとそれがよく現れている。
行動は公の秩序のために抑制されていたとしても、心が自由であれば、まだまだ可能性は残されているように思う。
「公の秩序」という制約があるから、自由に行動できない部分があるけれど、心は別だから何をどう考えたって良いのだ。社会的には忌避されることであっても、自由に発想していい、心のなかでさえ自由にならない社会になってしまったら、どうなってしまうのだろう。人間の終わりとも言えるかもしれない。
問題は、自分自身の自由な心をどうやって守っていけばいいかということだ。自分の仮説としては、行動が抑制され続けていると、自分の心に影響を及ぼすのではないか。自分の心の自在さを失わないように何が出来るのか。自分の感情や心を、日々自分で確認していくということは、きっと必要になってくるのではないか。日記をつけるなどして、自分の心の現在地を把握すること。例えば仕事の忙しさから、自分の心・感情というのが無視され続けると、人間がおかしくなってくるのではないかと思う。本当はやりたくないのに、仕事だからという理由で、それを無理に続けていると、自分の心がどんどんと傷つけられて死んでいくのではないか。
公の場で個人の感情を出すことは許されなくても、自分自身は自分の心についてきちんと把握する。それが自分自身を守ることにつながるのではないかと思う。