私はフェミニストじゃないけれど

DJ SODAさんの事件や現場の動画をTwitter(X)で見て、私はすごく心が痛かった。
でも、なぜこんなに胸が、心が痛いのか、私は表現し切れるかどうかわからないけれど、きっと言語化する必要があると思って、以下に記す。
今は拙くても、いつか私がもっと卓越な言葉で今の思いをなぞる際の習作だと思えばいい。

大人になってから、「女性であること」に絶望をすることが何度かあった。名前を言えばまず舐められることのない大学を出て、一度も女であることを振りかざし媚びることをせず過ごしていても、その瞬間は何度かあった。そんなに容姿が優れていない私でさえ。

オフィシャルに近い食事の場で、質問を投げかけられることが嫌だった。「彼氏はいるの?」「好きなタイプは?」「結婚願望はあるの?」「子供が好きなら子供欲しいんじゃない?」という言葉……「そうであること」が当たり前で、それ以外の余地は存在しない状況のグロテスクさに、いつも私は「やっぱりそうなんじゃん」と空を仰いでいた。「やっぱりダイバーシティなんて嘘っぱちなんだ」って。
他人の色ごとなんか聞いて何が楽しいんだ?って思うのは私のハビトゥスによるものだから、「あーあ、また来たよこの質問。やだなー」と思いながら答えている間は1番「多様性」らしさがあると皮肉ながら思う。
それでも、「女性らしさ」の追求は加速していく。
私の描いた絵を見て、「手の大きい人が好きなの?」と訊く。
彼氏はいないと答えると、「女らしさを出さない」「化粧っ気がない」と言う。
「何歳差までならいけるのか」「手が小さくて可愛い」「足が短い」エトセトラエトセトラ。そろそろやめにしたい。親の方が歳の近い異性に訊かれたこともあった。
学生の頃バイト先で何度か酔っ払いに「彼氏はいるの?」と訊かれたことはあった。いつもそれなりに割り切っていた。それは私を「学生バイトちゃん」として一括りに捉え揶揄っているだけなのだと。
でも違った。「女」なのだ。私という一生命体が「女性」としてその場で開かれ、消費されていく。
私が何を思い、何を学び、何を感じ、何を好み何を嫌うかなんて、相手には要らない情報なのだ。
先人たちが警鐘を鳴らし続けていた搾取の残滓だと、流石に気づいた。

あんまり書きすぎると胸糞が悪くなるのでここまでにしておくが、あまりにも聞いていた話と違うので日本社会を丸ごとクーリングオフしたくなる。我々Z世代のなかでは、そろそろ社会には「ナンセンスなこと、辞めね?」という風潮が流れ、コロナ禍でリモートワークも板につき、グローバリゼーションの文字も新鮮味を失うほど日本文化は均質化して、すっかりさっぱり快適な個人主義社会が爆誕しているはずだったのだ。こんなに前時代的に「おい女!」と後ろから殴られるとは思わないじゃん。

今回の事件について目にした際、何よりもその軽率さに心当たりがあった。
相手を容姿だけで判断すること。性別が異なるから、年齢が離れているから、社会経験に差があるから、話す言語が違うから、国籍が違うからと、相手を軽んじること。
お酒や、周りの人に自分を委ね、その場のノリで言葉にし、行動に移すこと。
社会に深く埋め込まれている「バイアス一本でやっております!」というどうしようもなさが露呈してしまった……。

大学のゼミでしきりにフェミニズムについて取り組む人たちが一定数いて、能天気な私は「難しそうなテーマに果敢に取り組む猛者」として彼ら彼女らを仰いでいたが、今は地に頭がめり込む勢いで感謝したい。こんなに根の深い問題に学生の時から真摯に向き合ってくれていたなんて……。

私はフェミニストというには知識も乏しく粗末な身だが、それでも発言に気をつけて生きること、行動を思い返すこと、己を顧みることはできる。相手に対し、その奥行きまで思いを馳せ、対話をすることだって可能だし、相手がそれを望まないのであれば、その場だけの簡単な会話で済ませることだってできる。
いつだって自我を保とう。「今の質問クソ過ぎるやろ!!!」と、相手を一蹴し、自分を守り、誰かを守れるように。
誰かの痛みに寄り添えるように。

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