日記/『愛するということ』について
最近Xでバズっていた下記の図書を購入した。
エーリッヒ・フロム 著、鈴木 晶 訳『愛するということ』
お盆休みの真っ只中、実家でゴロゴロくつろぎながらざっと流し読む。
ちなみに筆者はつい先週、男に振られたばかりである。
2人きりご飯の誘いを3回断らずに来ておいて
「そんなつもりは毛頭なかった」
とその人は言った。許せない。馬に蹴られちまえ。
閑話休題。
この本は、タイトルを読んで字の如く
「『愛するということ』とは」
をとにかく論ずる一冊であった。
遡ればアダムとイブ(つまり、世界および人間の誕生)から、価値観が変容し続ける近現代の社会構造に至るまで、
変わらない「愛するということ」の本質、
それに対し不十分ながらも代わるいくつかの事物(セックスとかドラッグとか、仕事とか消費活動とか)とその問題性を指摘しながら、あーだこーだ論じられていく。
フロイトの発達5段階や啓蒙主義者の潮流など専門的な話に言及される箇所も多く、
一読して日常語のように使われている言葉も、含んでいる専門的意味があるのだろうな、と遥か昔に大学の講義で聞いたことがあるような……ないような……忘れちゃったな……とボケボケな頭で2割程度の内容を噛み砕いた。
愛は技術だという。生来備わるものではないらしい。しかし、現代でその(愛は技術であり会得に習練が必要である)ことが軽視される要因は、
私たちが「愛すること」を考えるときに
「誰を」
愛するか?という「対象」にばかり気を取られるからだ、とも語られていたような気がする(もう内容がうろ覚えになりつつある)。
どのように、ではなく、誰を……。
同年代の子達と話すときの
「(マッチング)アプリとかやってる?」
「ちょっとだけ。本当にいい人いないよね」
「ガチでそう。出会い全然ないねんけど」
「どっかにいい人おらんかな〜」
みたいなよくある会話が脳裏をよぎるよぎる、
心当たりのオンパレード。
私たちはいつでも誰かを探している。愛することができ、そして愛してくれる誰かを。
対象を見つけたとき、私はどのようにその人を愛するのだろう?
きっとその人にだけ特段気を配るだろうし、己を開くだろうし、相手の至らぬ部分があったとしても甘く良い点数を付けるだろうし、もっと知りたい、相手の秘密を暴きたいと思いながら、一方で嫌われることを最も恐れ臆病になるはずだ。
心安らかに誰かを「愛する」日は来るのだろうか?
「愛する」ためには成熟した一個人へと成らないといけないそうだが、この社会で真に独立し孤独で、誰かを、自分の片割れを心から望む人間はどれくらいいるのだろう。
私だって仕事や暮らしに怠惰によりかかり、思考を鈍く保つようにしているのに。
そして、私が愛せると思えど、相手が愛してくれるとは限らない。
どうしたら相手が自分を愛してくれるか、というメソッドを記したハウツー本は残念ながらこの世にはないらしい。
きっと、思考する己だけが揺るがない。
すぐコロコロと気分が変わるため信用はできないけれど、少なくとも手中にある。
結局、自分を変えていくしかないのだ。揺るがぬ自分を信じてあげることが最良の道なのだろう。他人のことをコントロールなんてできないから。
とにかく今は恋だの愛だの煩わしい。
それでも私は己を尽くして誰かを愛したい。
だから髪を切った。殊更に短く。
まだ変われる自分を今はとても好ましく思う。
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