日記/愛の三角形とエゴについて

最近、近所の図書館で下記の本を借り読んだ。
(ちょっとした住宅街の小規模な図書館に、こうした学術書っぽい読み物があるあたり、東京って街はとことんお金がなくても知識にアクセスしやすい文化的な場所だと感じる)

レオ・ボルマンス編、鈴木晶訳『世界の学者が語る「愛」』西村書店、2017年


この本を選んだ背景には、すっかり恋愛に参っている私へどうか新しい視座を与えてくれ…という縋り付きがある。
百聞は一見にしかず、と言うし、仕事や勉強と一緒で恋愛も現実世界での試行錯誤が必要で、でも私はいまの恋に対しアマチュアながら100%向き合いたいので本なども読んじゃおうと思ったのだ。
いやーほんと、正直いますごい迷走している。毎日相手のことを考え続けているし、日々あーでもないこーでもないと1人で上の空だけれど、
ひとまずこの本を読んで知った「愛の三角形」という概念について記したい。

この本には、「愛すること」「結婚」「性欲」など、大きくLOVEの一言で括られはすれど単純に定義できない概念について、
世界の様々な専門家が各分野からつらつらと壁打ちのように指摘する編がたくさんまとめられている。

そのすべてを読んでいるなかで、「自分とだいたい同じ意味で愛という言葉を使っている人を探せ」という一文が特に印象的だった。
上記パッセージが語られるのは、アメリカの心理学者、ロバートJ.スタンバーグによる「愛の三角形」論が展開される章である。

彼によると、愛は
①親密さ
②情欲
③責任(コミットメント)
この3つの要素から成り立つ。
①は相手に対する信頼や親密さを指す。これは友達や家族にも抱く要素といえる。
②はそのまま相手への情欲、惹かれる心を指し、もっとも「恋」「恋愛」らしい概念だと思う。
③は相手との長期的な関係に対する忠誠心を指す。③はおそらくだが現代だと結婚などへの意識がわかりやすい。

愛する者として、この3条件が揃っておりかつ各要素の比率が合う人が、相手として好ましい……と本文には書かれている。「自分とだいたい同じ意味で愛という言葉を使う人を探せ」とは、この3要素に対するアンテナが合う人を探せ、ということだ。

「愛すること」をここまで理論化し細分化するなんて無粋な、と少し前までの私なら思っていた。

・だって恋って「落ちる」ものやん?
・Someday my prince will comeを地でいきたいしぃ
・「30歳までに結婚したい」って目的と手段が入れ替わってない?
以上、少し前の私の心の声である。

少し前の私よ、こちとら片想い10ヶ月かけて勇気だして誘って2人きりで2回ご飯行ってるのに明らかに脈無しやねん。そろそろ恋愛を理論づけさせろ。このままおばあちゃんになる気か?

恋愛というのは、とことんエゴで、「相手を愛したい」「相手に愛されたい」「相手を独占したい」など、どうしても思考する自分からは逃れられない。
そして、一方で相手の思考をコントロールすることは不可能で、惚れた時点で賭けの始まりだ。

特に、私としては「相手を愛したい」というエゴがもっとも厄介だ。相手は愛を大して求めていない、むしろ強く拒絶する場合だってある。ぶつける先がなく膨らみ続けた愛は爆発したり、燻ったり、腐ったり、黒ずんだり、溶けたり、いつのまにか忽然と姿を消したりするのだろう……。恋は盲目というし、本能に身を任せていては、いつか誰かを傷つけてしまう。

この「愛の三角形」論は、恋愛アマチュアな私へ「なーんだ!恋愛ってそういうことか!」とアハ体験を贈ってくれた。
そもそも、愛の3要素の比重は自由に抱くことができ、つまりエゴの範疇で済む。その枝葉として「愛したい」「愛されたい」と思うことも行き過ぎたことではない。
そこから、「私はこんな感じであなたを愛したいんですけど、あなたはどうっすか?」と、自分と相手の「愛する」の定義の差を確かめることが、「相互に愛する」ことの始発点なのだ。
そこでマッチできないものは、逆立ちしたってロンダートしたって即座にひっくり返すことはできない。

ここまで来て、気づく。
え、待って、恋愛ってめっちゃハードル高ない?
というかなんで世の中の人みんな恋愛できんの?すごない?

とにかく、私は私なりの「愛し方」がやっとわかってきたところで、それが相手に沿うものかどうかはまだ確かめきれていない。「愛の定義のすり合わせ」が必要であることも知らなかったのだから。
今後の私の奮闘を期待されたし。

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