人生振り返り
精神科を受診することにしたので、これまでの成育歴を振り返ることにした。
幼稚園生のころ
目立ちたがり屋な性格で、物おじせず初対面の子にも話しかけて一緒に遊んでいたらしい。また記憶力がよく、昨年度の劇の台詞を翌年に諳んじることができた。
運動が苦手で、鬼ごっこをするとかならず鬼を交替してくれる子が現れた。
一輪車にどうしても乗りたくなり、簡単な技までできるようになった。
竹馬も練習しできるようになったが、あまり得意ではなかった。
おひるねの時間に眠ることができず、出来心でクラスの男の子の真似をして先生にバレないように起き上がってダッシュしたら普通にバレて正座で叱られた。
3歳ころには平仮名、6歳ころには漢字が読めていた。
絵がうまいね、と先生たちに言われて調子をこきまくっており、湯飲みにプリントする絵を代表で描いていたりした。
絵とおままごと、一輪車の練習が大好きだった。
ちょっと発達の遅れている子に声をかけ、馴染めるようにしなきゃ!となぜか思っていた。
潔癖で、他の子が手を床に付けたり靴の裏を触ったり鼻くそを食べたりしているのを見てドン引きしていた。
癇癪持ちで、絵やおもちゃが思うようにいかないと声をあげてしまうことがあったが、これは家でのみの話で、同年代の子に対しては割と理性的な対応をするように心がけていたように思う。
親になにか怒られると、自分を否定されているように感じて「どうせ私は」と言い放ち体育座りでそっぽを向いていた。
総じてコミュ力が高く、頭のいい方に入る子だったものの、情緒が不安定だったと言えそうだ。自己肯定感というか、万能感に満ち満ちている感じがある。
小学校低学年のころ
人数の少ない幼稚園から急に人数の多い小学校に入学したことでビビっていた。
初登校の前に父親と一緒に登校の練習をし、何分かかるのか計測したことを覚えている。(ついてこないでね!と言ったが初登校の日には父が後ろからついてきていたらしい)それをもとに、母親は家を出る時刻・ご飯を食べる時刻・起きる時刻を設定してくれた。このおかげで遅刻することは一度もなかった。
相変わらず目立ちたがりで、積極的に手を挙げて発言した。
授業にも真面目に取り組めており、成績は普通に良かったはず。
私の学年はどうも問題児が多く、授業中に座っていられない子、忘れ物がひどい子などが多く、そうした環境のなかで自分は優等生だと自負していた。
勉強で置いて行かれる感覚は微塵もなかったが、割り算やちょっと考えないといけない文章題が苦手だった。うっかりミスも多い。
運動はいよいよ苦手だった。勉強はできるが運動ができない。
小学校で体育の成績に反映される、マラソンの記録が全く伸びなかった。
縄跳びも本当にだめで、体育の時間には癇癪を起こしそうで堪えていた。
小学二年生の頃、妹が生まれ非常に情緒不安定になった。
自分を星に喩えて、父に対して「母にとって私はあれくらいちっぽけな存在なんでしょう?」と言ったら、それを後日母親に詰められたことを思い出す。今にして思えば、「私をもっと愛して、構ってくれ」と言えばよかったのだ。
そして母親の対応が怖くなり、自分をもっと愛してほしい、構ってほしいとは言えなくなった。
結果、私は高校の頃まで長いこと妹に対して見当違いの恨み・憎しみを抱いていた。
母と祖母は折り合いが悪く、もうあまり覚えていないが母と祖母の板挟みになっていたようだった。
また、両親の怒り方がとても怖かった。父は当時、私に似て一度怒ると周囲へ怒っていることをアピールすることがやめられなかった。母は典型的なお母さん構文の使い手だった。私はこのあたりから、自分は愛されていないと感じることがあった。
充実した日々ではあった。毎週火曜日と土曜日に習い事へ行き、カレーを食べた。宿題にも自主的に取り組んで、ちゃんと終わらせている。
この頃はいわゆる「いい子」だった。また、この頃妹の誕生をきっかけに愛されていないことへの苦しみを感じている。実際には、親たちには余裕がなかっただけなのだ。愛されていないわけではなかった。愛されていないのなら、習い事やゲームなんかさせてくれない。
小学校高学年のころ
部活を始めたことをきっかけに、世界が激変した。
部活によって集団行動や、同年代との上下関係を学んだ。
厳しい叱責を受けても、部活という強制力によって頑張ることができた。
学年が全体的に荒れていて、しょっちゅう廊下に立たされていた。忘れ物を一つした、私語があった、そういう些細な事で先生が癇癪を起こした様に叫んでいたし、そうしないとクラスが静まらなかった。
私はどうやらあまり常識を察する力がなかった。暗黙の了解がよくわかっていないことが多かった。
運動が苦手で、特定の友達とばかり同じような遊びをしていた。
粘土でポケモンを作っておままごとをしたり、お絵描きをしたり、お絵描きをしたり、電子オルガンを弾いたり、そんなことばかりしていた。
部活を始めたことで、簡単に筋肉痛を起こした。人よりも筋肉がないようだった。
また、怪我が多かった。捻挫したり、膝の皮膚にケロイドの跡が残るような怪我を連発した。
部活の顧問に心酔しており、5年生の頃「嫌な基礎練習や筋トレでも頑張って、来年全国優勝しよう」と思い筋トレに励んでいた。結果はちゃんと出て、私は自己効力感を得ることができた。また、楽譜の読みも自力でできるように練習し、自主練習もしていた。
本当に部活が楽しかった。
学年全体が不出来で荒れた環境で、担任の先生たちのことも大嫌いだったけれど、部活があるのだから学校には行こう!というモチベーションで行動していた。メチャクチャ大変だったが部活が大好きだった。
勉強はできたが、5~6年生の頃から先延ばし癖がみえるようになった。6年生の頃夏休みの宿題を登校日当日の夜中までかかったことを思い出す。
そして勉強ができたので、こんな荒れた環境とはおさらばしてやる的な気持ちで中学受験を決めた。
担任の先生がとにかく嫌いだった。○○部の奴らは部活ばかりで生活態度や勉強がなっとらん、みたいな話をされたときに怒りが募ったことを覚えている。そんなことはない、部活を侮辱しないでくれ、私が証明してやる!みたいな。
そして、中学受験のために1~2か月間本気で勉強した。
ゲームを触らない、と決めて実行した。
今となっては信じられないことだが、ゲームを我慢して部活の後に夜9時から深夜2時まで勉強する生活ができていた。部活で培った体力を遺憾なく発揮していた。
無事中学受験に受かり、第一に報告したのは部活の顧問だった。顧問には「担任から最初に報告するものだよ」と諭された(確かに面子を立てる事を考慮していなかった)が、担任なんかよりも大好きな顧問に聞いてほしかったのだ。私は部活の厳しい練習の中でもちゃんと成果を出した。あなたの教えは間違っていなかった。私を見くびっていた担任など知るものか、と……
(今思うと、中学受験をすることにして面接練習を取り付けてくれたり、内申書を書いてくれたのは担任なのだから、全く感謝しないというのも良くない話だ)
勉強はできていたのだが、情緒は不安定だった。癇癪はあまり治らなかったし、まじめに部活をやらない子に対してブチ切れてしまい問題を起こすなど、感情の制御が苦手だったことがわかる。しかし真面目だったのであまり問題にはならなかったらしい。
まとめると、体力があり、勉強もできたが、感情の制御がうまくいっていない。生真面目すぎる性格で、怒りの沸点が低い。この頃感じた怒りを、22歳になった今でも新鮮に再現することができる。また、この頃友達に影響されオタク的趣味に傾倒し始めた。
今でも、部活をやっていた4年間が人生で最も輝かしく充実していた時期だった。あの頃が恋しい。戻れるなら戻りたい。
中学生のころ
本当に黒歴史が多い。あまり振り返りたくない。
電車で通うことになった、中学受験の中学校は、当然ながらそれまでの文化とは全く異なっていて、とても困惑した。
友人には恵まれたが、周囲はみな私よりも精神年齢が高く、成績もよかったので人生で初めての挫折経験をした。
情緒不安定が顕著で、そのことについてよく悩んでいた。PMS、またはPMDDではないか?と自分を疑っていた。
周囲を顧みられない、自分本位な行動を多くしてしまい、最終的に卒業前にクラスの子に嫌われて無視されるようになったのだった。
部活で部長になったが、段取り力や周囲との調整力の無い自分には向いていないことだった、と強く後悔した。本当に反省した。なぜ安易に部長になりたい等と言い出したんだか。
部長を経験したことで、自分の能力に関する問題を認識しはじめた。
先々の予定が見通せない。複数言われたことを一つしか覚えていない。勝手にものを先読みして判断してしまい、やらかしてしまう。報告・連絡・相談ができない。やるべきことをうっかり忘れてしまうことが多い。
怒られるくらいなら回避する、という傾向も分かった。
学校行きたくないよ~、部活やだ~、と朝泣き出した私を見て、母がとても心配していた。
勉強は、環境が変わり相対的な成績は平均くらいだったものの、課題を溜め込んだり提出期限に遅れることはほとんどなかった。遅刻なども無かったし、なぜか始発に乗ってゆっくり1時間ほどかけて学校へ通っていた。この頃の友人たちは、今も一番の友達として長く付き合うことができている。本当に感謝しかない。
まとめると、中学生の頃には今に至るまでの人付き合いについての問題点を強く認識した。また、自分の情緒不安定さについて悩むようになった。勉強は特に問題なくできていた。
高校生のころ
中学のころの失敗を繰り返すものかと、人間関係について中学生の頃よりは多少慎重になった。が、異常気味ではあったと思われる。
高校のころはとにかく勉強ができなくなった。量に対応できなくなった。スマホを持ち出したことで、見事に依存し始めた。
精神的に不安定なことが多くなり、特に高校2年生の間は自死を本気で考えていた。理解を示してくれない両親に対して不信感が募った。
ストレスの高い環境での勉強が思った以上に苦痛で、体が先に悲鳴をあげ、精神的にも無理が続き、家に帰っても両親は拠りどころに感じられなかった。
周囲の大人たちはあまりにも「勉強しろ」とそれのみを言うので、「大学に行けなかったら死ぬしかない」と思った。そして死んだら私を追い詰めたことへの当てつけになるだろうかと考えていた。
特に数学ができず悩んだ。数学の事を考えると息が苦しくなり、ペンを持つ手が震え、めまいがしたり、目が滑ったり、黒いはずの文字が紫や緑に見えていた。
それでも、それを訴えてもなかなか両親は分かってくれず、苦しい日々が続いていた。
勉強ができないから苦しいのか、スマホ依存が苦しいのか、両親が受け入れてくれないから苦しいのか、訳が分からなくなっていた。
一度限界を感じ、カウンセラーへ相談しなければと思い保健室で話を聞いてもらったことがある。そこで少し冷静になった。
また、中学から今もずっと仲良くしてくれている友人が「飛び降りて死んだりしないで」と言ってくれたことがすごく心の支えになった。たった一言、尊重されている、心配されていると分かっただけで救われていた。
最も精神的に苦しかった高校2年の夏、調べ学習のようなものがあったので、自分の苦しさに対処するべく心理学について調べていた。
これによって私はどうやら認知が非常に歪んでいるらしいと気が付いた。そして現状はおそらくうつ病に近い状態ではないかと考えていた。
また同様にADHD、ASDについて自分から調べることも増えた。安易に発達障害を自負するような真似は行儀がよくないと分かっていても、どう考えてもこれじゃないか、と自分を指摘するのをやめられなかった。
それと同時に、ADHDライフハックの類いが非常に実践的で役立つことにも気が付いた。自分がやるべきはこれだと分かり、自分の情緒不安定さをコントロールできないかを試し始めた。
生きて行くために趣味に依存した。好きな俳優の舞台に申し込み、チケットを手に入れ、「この舞台を生で見るまでは死ねない」と思うことでなんとか生きていた。一人で行ったお台場のZeppはとてもいい思い出になった。
それ以降、両親の態度が軟化したこと・舞台をモチベーションに生きる活力が出た事で、精神的な苦痛は徐々にましになっていった。が、成績は取り戻せなかった。数学についてはあきらめるほかないが、国語と生物以外の成績が軒並み芳しくなく、右肩下がりの成績は学内で下から数えた方が早かった。
センター試験前にはかなり情緒が安定していたことが救いだったが、一度折れたものが治らず、勉強は無理のない範囲でしかできなくなった。「頑張る」ことが極端にできなかったので、「受験勉強」みたいな頑張りをせずに大学受験へ臨んだ。
以上、高校生までのまとめ。
大学以降はまた別記事へまとめる。
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