生き方を許されたい自分が不寛容
将来が見えない。
もとより特に大学でやりたいこともなく、ただ奨学金の手続きへの異様な恐怖感に苛まれ地元の大学をふわっと受け受かってしまった。
大学生活ももう老後にさしかかり、学生らしい忙しさというものはあまり感じない。
であれば、通常は就活に勤しんでいる頃合なのではないかと思うんだけれど、私は今なおなんにもできていない。
華のキャンパスライフ、大学でできたたくさんの友人、全力で打ち込めるサークル……という大学へのふわっとしたイメージはあくまでもイメージだった。(と思いたいだけなのだ)
実際にはコロナの煽りを受けオンライン授業だったが、それでも自分から新しいことに挑戦できる環境にはあったのだ。それなのに、陰キャだから怖いからと機会から目を背け続けてもうこんな時期になってしまった。
なにもかも遅すぎた。
自分語り
なぜか未知の未来に対する異様なまでの恐怖があって、それは幼いころはそうでもなかったんだけど、いまやその謎恐怖心によって自分の性格は一言で言えば
「石橋を叩いて渡る」
ならぬ、
「石橋を叩くことが怖くて逃げ続けているうちに石橋が先に朽ちる」
という、なんとも情けない感じになった。
躁鬱か?と疑いたくなるくらい周期的に感情の波があり、鬱期には自分でも訳の分からないメンヘラを露呈させてしまう。
中学生の頃には自覚があり、そういう病気の名前があるのも知っているが、薬を必要とするほどではないので病気ではない。
話があっちこっちしてしまうが、要はそういう自分の色々を比較的客観視できるようになった。
一般的な情緒の成長からは結構遅れていると思っている。
未だに中二病が治らない。
発達障害の診断を受けたことは無いが、限りなくそれに近い性質を持っていると思う。(これは怒られが発生しそうだけど、自分なりに色々と調べてある程度確信してる)
(だからと言ってそれをアイデンティティにするようにひけらかしたいのではない、病気かどうかは日常生活への支障の有無なので、ギリ病気じゃないくらいのラインでそういう性質だねという自分への理解)
変えられることとどうしたらいいか分からないこと
で、そういう自分は非常に情けないし、いまだに中学生の頃ハマった作品に何度も何度も出戻りしてしまうような精神年齢の成長の無さも、他人を性愛的に好きになれたためしがないという社会不適応感も、人生一応大学までやってきたのである程度は見つめてきた。
そして、なんて情けないんだ変わらなければと多少なりとも思い、改善できるところはしてきたつもりでいる。
簡単に変えられるところは簡単だ。例えば、見た目に関わることはやはり見た目でわかるので、どうしたらいいのかもわかりやすい。
自分が不細工なのか顔が整っているのか、太っているか痩せているのかはともかくとして、少なくとも人に非難されるほどではなくなった。
同世代の基準からしたら芋くさいのだろうが、後ろ指を指されるような、他人に共感性羞恥を与えちゃうようなヤバさではない……と思いたいけど……
だけど、情緒の知恵遅れやら、自分の躁鬱の波やら、挑戦から逃げてきたことへのもにゃもにゃした思いやら、付き合った人を微塵も好きになれなかったことやら、そういう部分に関してはもうどうしていいか分からないでいる。そしてそれを考えるとまた躁鬱の波にのまれてどこかに流されたくなってしまう。
現状
そういうわけで、ある程度長い間向き合ってきたけれどいまだにどうしていいか分からないことに関しては、モンスターのレベルと自分のレベルが違いすぎて攻略できないゲームのように、今の段階の自分には答えを出せないことなんだろうと一度思考停止することになった。
ということで、今の自分自身は決して100点ではないものの0点ではないからヨシ!としていく方針になる。
これは言い方を変えれば普通に現実逃避の続き、問題の先送りと言えてしまうんだけど、別に他人に非難されるほどでなければいいんじゃないのか。
(他人が見て批判するのは、まず第一に見た目、次に仕草や振る舞い、それから言動だと思う。)
そしてざっくりと自分を肯定し、当面の間死なずに生き延びるうえで自分のような生き方をふわっとありがちなものと思うようになった。
折り合いが付けられるかというと
であれば、自分のような「オタク喋りで中二病が抜けていなくて芋臭くて変にまじめで融通の利かない陰キャ」、も、それでいいのだ。
けれど悲しいかな、自分はそういう人種が好きではない。
例えば黒縁の眼鏡の下になんだかぼさぼさした、触覚にしては分厚すぎる垂れ髪を肩まで伸ばした、これまたぼさついたひっつめ髪の、服装に反してやたらと財布や鞄がふりふりした、足元が薄汚れた感じの人。
絶対に見たことがあると思う。
はたまた、普段は暗い雰囲気かと思いきや、アニメや漫画の話になると急に楽しそうに話しだし、聞いてもいないうんちくを喋り、周りが若干引いているのに気が付かない人。
お店でやたらと声が大きく早口で盛り上がり、喉を開いたような低い声でアニメキャラのような語録で突っ込みを入れあう二人組とか。
ちなみにこれは全部自分の話だ。今も治らないので、書きながら憂鬱になってくる。
でも自分の話でなく、こういう人を見かけたら自分はどう思うだろう?
当然軽蔑する。まだ子どもだったらそんな目くじら立てるほどでもないよと自分に言い聞かせるけど。
だから結局のところ、自分の今の生き方をふわっと肯定して生きるには自分が不寛容なのだ。
でもこの感覚を失ったら、無敵の人とやらになってしまいそうな気がする。
恥
不寛容だ。
自分が恥ずかしい。
自分のような生き方をしている他人が恥ずかしい奴だと思う。
(というか、他人に不寛容な奴はそもそも精神年齢が低い。)
自分の恥を解決しようとすると途端によくわからない気分になる。
前向きな気持ちには少なくともならない。
自分の未来を前向きに切り開こうという気分になれたためしがない。
他人に非難されないことばかりを気にし続けているのでこうなったのかもしれないと薄々気が付いている。
他人に不寛容なひとは、他人からも自分が向けるような不寛容な目で見られているんじゃないかと思ってしまうのだと思う。自分の目線を基準でみんな考えるだろうから。
将来が見えない。
知恵遅れの情緒を先送りに就職活動に励まなければいけないことが恐ろしい。
周りが大人になっていく中、自分はいまだにこんなくだらないことを、こんなにも長々と書いていて恥ずかしい。
将来が見えない。自分が恥ずかしい。でも変わろうとすることが恐ろしい。
時間が解決してくれることを願うには、もう期限切れなのではないかと思うと、どうしたら……
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